れて一体となっているのであると思います。
 右のような場合には、個人生活という中に他の二つの生活が自然に包容され、国民生活という中に個人生活も世界生活も摂取され、世界生活という中に同じく他の二つの生活が内含されていて、何の扞格《かんかく》も凝滞《ぎょうたい》も発見されず、極めて平和であるのです。私は誰にも明瞭なこの共通の実感と同じ状態の中に、如何なる場合でも三つの生活を融合させた一体のものとして経験したく思います。そうして、この要求が意識的なものであるだけ、その融合をも意識的に企画し努力せねばなりません。
 例えば戦争というような場合は、国民と国民とが――その代表である国家と国家とが――戦争するので、それが個人及び世界人類の幸福となる結果は既往にも甚だ稀《まれ》にしかなかったのです。殊に今日は腕力の延長である戦争、野蛮時代の遺習である戦争に由って国民生活の利益を計る事の不法に何人《なんぴと》も目の覚めない時代ではありません。そして戦争が最早国民生活の利益になるのでないこともこの度の大戦争で明白になりました。個人生活を虐《しいた》げ、世界生活の平和を攪乱《かくらん》して置いて、ひとり国民
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