に思ふことが多かつたのです。お金持でなくても一人子なら好《い》いとも思ひました。私などは一月《ひとつき》のうち三言も父が言葉を掛けてくれるやうなことは稀有だつた程ですから物足りなかつたのです。私と南さんは女学校でも一緒の教場に居ました。此処《ここ》では小学生の私がお姫様のやうに思つて居ました南さんよりも更に綺麗な着物を着たり、華やかな風采をもつた友達が多く出来ましたけれど、やはり私の一番なつかしい人は南さんでした。朝は時間を云ひ合せて街角で出合つて登校をして、帰りも必ず一緒に校門を出ました。杏《あんず》の木の下の空井戸《からゐど》の竹簀《たけず》の蓋にもたれて昼の休時間は二人で話ばかりして過しました。
「大阪に梅《うめ》の助《すけ》と云ふ役者があるの、綺麗な顔ですよ。この間《あひだ》ね、お小姓《こしやう》になつたの、桃色のお振袖《ふりそで》を着てましたよ。」
 かう一度南さんの噂に出ました役者はそれから間もなく死んだと云ふことです。私等は十五の歳《とし》に女学校を卒業しましたが、南さんはそのまゝお下《さが》りになり、私は補習科に残りましたから、淋しく物足らない思ひをすることも屡《しば/\》ありました。後《のち》に聞きますと一人子だと羨んだ南さんは養父母に育てられて居た人だつたのださうです。議員の叔父さんと云ふのが真実《ほんたう》のお父様だつたのださうです。


私の見た少女 楠さん

楠さん

 楠《くすのき》さんは真宗寺《しんしゆうでら》の慈光寺《じくわうじ》の娘さんでした。私はかう書き初めて其《その》頃楠さんの年齢《とし》はいくつぐらゐであつたのであらうと思つて見ますが解《わか》りません。これは忘れたのではなくて、私と楠さんが一級の中で最も親しかつた時にも知らずに過ぎたことだつたのです。唯《た》だ私より年上であつたことを云つて置きませう。私の居ました堺《さかひ》女学校と云ひますのは小学校の四年級から直ぐに入れる程度の学校でしたが、本科と裁縫科の二つに分けられて居ました。裁縫科の生徒は一週間のうち三四度本科の教場で修身《しうしん》と家政の講話だけを私等と一緒になつて聞くのでした。どう云ふわけか裁縫科の生徒は本科の生徒に比べて大人らしくなつて居ました。ですから最も初めに楠さんと逢ひました時の私がおけし頭であつたのに比べて楠さんは大きい銀杏返《いてふがへ》しにも結《ゆ》つて居ました。楠さんは裁縫科の生徒だつたのです。顔だけを見知つて居まして私と楠さんは物を一言云つたこともないままで二年生になつてしまひました。丁度《ちやうど》其《その》頃高等師範をお出になつた遠山《とほやま》さんと云ふ方が東京から私等の先生になりに来て下さいました。遠山先生はおいでになつて間もなく修身の時間に、今日は裁縫科の方に希望を述べるとお云ひになりまして、
「あなた方は裁縫を重《おも》に習つてお家《うち》の手助けを早く出来るやうになるのを楽みにしておいでになるのでせうが、私は少しあなた方に考へて頂きたいことがあるのです。女は裁縫をさへ上手にすれば好《い》いと思ふのは昔風な考へで、世界にはいろいろな国があつて知慧の進んだ人の多いこと、日本もそれに負けて居てはならないと云ふことを思ふことの出来る人なら、智慧を磨くための学問の必要はないなどとは思へない筈《はず》だと思ひます。」
 こんなことからお説き出しになつて、一身上の事情が本科を修めてもいい人なら皆本科にお変りなさいと云ふことをお云ひになりました。その次の週に今迄本科の教場で誰かの空席を借りて講義を聞いた裁縫科の生徒の二人が私達の机の傍《そば》に自席を持つやうになりました。その一人は楠さんでした。感心な方《かた》だと思ひながらも人一倍はにかみの強い私は楠さんに特に接近をしようとも思ひませんでした。今一人の人のことは忘れてしまひましたが楠さんは其《その》次の学期試験に一番になりました。其《その》時の皆の嫉妬はひどいものでした。楠さんは気の毒なやうに憎まれました。私は楠さんの年齢《とし》を自分達よりも六つ七つも上のやうに噂をする者があつても、そんな筈はないと理性で否定をして居ました。遠山先生の所へ学科の復習をして頂きに行つたと云ふことを聞いた時にはまた、そんなことも必要ならしてもさしつかへはない、楠さんは自己のために善を行つたのだと判断をしました。席順で並べられてあつた机も私のと楠さんのとは極く近かつたのですから、其《その》時分から私は楠さんと交際をし初めました。或時私は楠さんに、
「今月のせわだ文学と云ふ雑誌に面白いことが載つて居ました。」
 こんなことを云ひました。
「せわだ文学、せわだ文学。」
と楠さんは首を傾けました。
「早いと云ふ字と、稲と云ふ字と、田と云ふ字を書くのです。」
「それではわせだ文学でせう。」
「それをせわだ文学と読むのですよ。」
「さうでしたか、私はわせだ文学だと思つてました。さう読むのでしたかねえ。」
「さうらしいですよ。」
 私はそれから裁縫の教場へ入りましたが、早稲田をせわだと云つた自分の説に不安の起つて来るのを感じました。私の頬はもう熱くなつて居ました。誤つたと思ふよりも先に恥を感じたのです。早く実の出来る稲は早稲《わせ》ではないか、それに田が附いて居るからわせだなのだ、私は最初にふと誤つた読癖《よみぐせ》を附けてしまつて誤りを知らずに居たので。楠さんの云つたことが正しいのだ、楠さんにはそれが解つて居るのに私を反省させるために譲つてお置きになつた、真実《ほんたう》に楠さんに済まないと思ひました私は、裁縫の教場では私等よりずつと高い級に居る楠さんの所へ走つて行きました。
「楠さん、先刻《さつき》の雑誌の名はやつぱし早稲田《わせだ》文学でしたわ。」
 大決心をして詫びようと思ひましたことも口ではこれだけより云へませんでした。私はそれから少し経つてからある日曜に寺町の大安寺《だいあんじ》へお祖母《ばあ》さんのお墓参りをしました時に楠さんを訪ねて行きました。その慈光寺の門には金の大きい菊水《きくすい》の紋が打たれて居て、其《その》下に売薬の古い看板がかゝつて居ました。
「お上りなさいな。本なんか出して遊びませう。」
 暗くて広い庫裏《くり》の土間の上り口で楠さんは頻りに勧めてくれましたが、友人の家と云ふ所へ其《その》時初めて行つた私は思ひ切つて楠さんの居間へ通ることをようしませんでした。向うの室《へや》で機《はた》を織つておいでになつた楠さんの母様《かあさん》も出て来て私をいたはつて下さいました。
「では庭ででも遊びませう。」
と云ふ楠さんに伴はれて私は鐘樓の横やら本堂の前やらの草木の花の中を歩きました。今思へばそれ程のこともありませんが其《その》頃の私には慈光寺の庭程美しい趣の多い所はないやうに思はれました。
「私の姉《ねえ》さんは薔薇があれば香水を拵《こしら》へると云つてます。」
 こんなことを私が云ひますと、
「薔薇の花を切つて上げませうか。」
と楠さんは云ひました。私は驚異の目を見張て、
「お父様《とうさん》のお花を切つてもいいのですか、あなたが。」
と云ひました。
「いゝのですとも。ちつとも叱られませんよ。」
「まあ。」
 私は楠さんの得て居る自由を羨まずには居られませんでした。私のために鋏《はさみ》を取つて来て薔薇の花をしよきしよきと切つて落しました。鉢植のも花壇のも高い木に倚《よ》つて咲いたのも好《い》いのは皆切つてくれました。赤いのなどは香《か》が悪いと云つて白や薄黄や薄水色やばかりを切つてくれました。其《その》日私が姉の前で開きました包から百ばかりの薔薇の出ました時の心もちは今思ひ出しましても興奮される程嬉しいことでした。二人がお茶の稽古に行きます日、その初《はじめ》に師家へ納めます金のことで、
「束脩《そくしう》と云ふのでせう。」
と楠さんは云ひ、私はまた、
「脩束《しうそく》ぢやなかつたかしら。」
 こんな間違ひを云つた記憶もあります。河井酔茗《かはゐすいめい》さんなどの仲間へ私を紹介した人もそれから幾年か後《のち》の楠さんでした。


私の見た少女 おさやん

おさやん

 おさやんと私は従妹《いとこ》です。真実《ほんたう》の名前は龍野《たつの》さくと云ふのです。私とおさやんは同年《おないどし》でしたけれども、おさやんは三月に生れて私は十二月に生れたからまあ一歳《ひとつ》違ひのやうなものだと私の母であるおさやんの叔母が何時《いつ》も云ひますのを、私は小い時分から真似して其《その》通りのことを云つて居ました。それにおさやんは龍源《たつげん》の叔母の子として一番大きい子で、私は兄弟の中で末つ子に近い方でしたから、一方は大人びて私は子供々々しくて三月と十二月の違ひばかりでなくおさやんは私を妹あつかひにして居ました。おさやんの家は酒屋でした。なつかしい、気の好《い》い遊び相手だつたおさやんを思ひますとまづ目に山のやうに高い大きい酒樽《さかだる》の並んだ幻影《まばろし》が見えます。光線を多く取つてない私の郷里などの古い建築法で造られた家は、中の土間へ入ると冬でも夏でも冷々《ひや/\》とした風が裾から起つて来るのでした。中浜通りの小林寺町《せうりんじちやう》と云ふ所にそのおさやんの家はありました。私は大抵の場合自分の家の「べい」と私が極く小い時分から私だけの特殊な呼名を附けて居た老いた女中と一所《いつしよ》に龍源へ行きました。もう一人の叔母の家がその二三町先にありまして、私は其処《そこ》へ行つた帰りを龍源へ寄るのが例でした。黒くなつた大きい酒屋看板を遠くから見て私の小い胸は先づ轟《とゞろ》いたものです。而《しか》し私は恥しがりの子でしたから鹿喰《しゝくひ》と云ふ叔母の家ででも龍源ででも余り座敷へ上つて遊ぶやうなことはありませんでした。鹿喰では金魚池の傍《そば》まで庭口から行つて見るだけで、龍源の家ででもお雛様の時の外《ほか》は大抵遊ぶのは裏庭の蔵の蔭で、筵《むしろ》を敷いて小樽を幾つも並べたり、二つの樽に板を渡したりした上で玩具《おもちや》を弄《もてあそ》んで居たのでした。おさやんと私の小学校はもとより違つて居ました。おさやんは晴々とした顔で、色の白い目の大きい口元の美くしい人形のやうな少女でした。友染《いうぜん》の着物に白茶錦《しらちやにしき》の帯を矢《や》の字《じ》結《むす》びにして、まだ小い頃から蝶々髷《てふ/\まげ》やら桃割《もゝわれ》を結《ゆ》つて、銀の薄《すゝき》の簪《かんざし》などを挿して、住吉祭《すみよしまつり》の神輿《みこし》の行列を私の家へ見物に来て居る時などは人が皆表の道に立留つておさやんを眺めました。私は髪もお煙草盆《たばこぼん》で、縞《しま》の着物に水色の襟《えり》を重ねて黒繻子《くろじゆす》の帯をさせられて居ました。私と私の妹とおさやんの三人で堺《さかひ》の街の北の西の端の海船《かいせん》と云ふ所へ、それも夏祭などのおよばれに行つて居ますと、同じ堺でも其処等辺《そこらへん》の人は私等を見知つて居ませんから、
「兄弟やらうけれど、姉《ねえ》さんが一番|綺麗《きれい》な子やな。」
などと云つたりして居ました。おさやんは私の母から私よりも大切なのかと思ふ程に可愛《かは》ゆがられて居ました。おさやんは庭から帰るやうなことをせずに私の家では家の人のやうに用の手伝ひなどをして居ました。
 私はおさやんに関りのあることで恥しいことをお話ししなければなりません。私の七歳《ななつ》か八歳《やつつ》ぐらゐの時に、私の母の両親は極く近い所にある私の家の借家を隠居所にして居ました。龍源の叔母はよくおさやんを伴《つ》れて其《その》隠居所へ来て居ました。私もよく其処《そこ》へ行つて居ました。其《その》時分に女の子が江戸紫《えどむらさき》の無地の帯をすることが流行《はや》つて居たと見えまして、或時二人は自身達の帯の色が同じであることを発見して喜びました。けれどもおさやんのは縮緬《ちりめん》で私のはメリンス地でした。二人はまた其《その》事にも気が附いて来ました。
前へ 次へ
全8ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング