けれど何とも口に出しては云ひませんでした。それは今した喜びを直ちに打ち壊すやうなものであると思つたからでした。二人は其《その》日に限つてお祖母《ばあ》さんが入れて上げようと云ふものですから隠居所のお湯に入りました。そして上つて出た時に、私は縮緬の方のおさやんの帯が一寸《ちよつと》して見たくなりました。もとより意識して私はおさやんの帯で貝《かひ》の口《くち》を結んで後《うしろ》へ廻しましたそしておさやんの気の附かないうちにまた解いて置かうと思つて居ます所へもうおさやんが出て来ました。私は顔が真紅《まつか》になつてどうすることも出来ませんのでしたがおさやんはしらずに着物の紐をしめたりなどして居ました。
「それあんたの帯。」
「……」
「私の帯やわ。」
「………」
「かへしとくなはれ。」
私は黙つたまゝ帯を解いておさやんに渡しましたが悲しくてなりませんでした。恥しくてなりませんでした。淋しい心持がしてなりませんでした。三十年経つた今でもおさやんの方の帯をして後《うしろ》へ廻してから前の方を撫でて見た時の縮緬の手触りがまた忘れられもしません。
女学校へ入つたらおさやんと私は一所の教場になるのだとよく二人で云ひ会つて居ましまたが、おさやんは町の裁縫師匠の処へ縫物子《ぬひものこ》になつて行くことになりましたから二人は終《しま》ひまで一所の学校へは通へませんでした。それからも月のうちに一度二度は逢つて居ましたがだんだん昔のやうに心から笑ひ会つたり泣き会つたりすることが出来なくなつて来ました。それは二人の考へが余程離れたものになつて居たからです。そのうちおさやんの家が蔵を壊して其処《そこ》で緞通《だんつう》を織り初めたと云ふことを出入の人などが噂しました。
「お気の毒なことだす。龍源さんでは嬢さんも職工と一所に緞通を織つておいでになります。お悧好《りかう》な方《かた》だすよつてもう機持《はたも》ちにおなりになつて、一本おきの二本などと大きい声で云つておいでになるのが聞えます。嬢はんはさうして朝から晩まで働いておいでになります。」
私はこれを聞いて悲しがりました。逢つた時に慰めようと思つて居ましたが、私の家《うち》へ来てはゆめにもそんなことをして居るとおさやんは云はないのですから、私の方から云ひ出すことも出来ませんでした。そして芝居の噂などばかりをおさやんはしました。私はおさやんの家の蔵のある六軒筋《ろくけんすぢ》の道から二本おきの幾本などと云ふおさやんの声を聞いて見ようかともよく思ひました。かなり感傷的になつて居ましたから其《その》声を聞いて泣いて見たいやうな気があつたらしく思はれます。其《その》時分からおさやんの美くしさは月々減じて行くやうに見えました。私にはそれも悲しいことであつたに違ひありません。私はおさやんが私よりも醜くなつて来たと聞くことが厭《いや》でなりませんでした。龍源の叔父が中浜《なかはま》の家を売ると言ふことで親類達が私の家などに寄つて相談して居るのを聞きまして、親類の人が皆可愛ゆがつて居たおさやんの家のさうなるのを誰か一人でも助けてやる人はないのかなどと思つて大人を憎くさへ思ひました。おさやんは手紙などをちつとも書かない人ですからどうして此頃《このごろ》は居るのか私は知りません。もう堺には居ないのでせうか、気の好《い》い遊び相手だつたおさやん。
私の見た少女 山太郎のおみきさん
山太郎のおみきさん
私がこれまで少女時代のことを書きまして、初めて見た美しい友達と云ふやうなことがもう誰かのことに云つてありましたら、それはそれを書いた時の思ひ違ひで、私の小さい時に初めて知つた優しい美くしい少女は加賀田《かがた》おみきさんの外《ほか》にはありません。二人は何時《いつ》頃から一所《いつしよ》の組になつたのでせう、それはもう余程小さい頃のことで、何年級制にならない何級制だつた頃のことかと思ひます。其《その》時分の私は外《ほか》にお友達があることは全《まる》で知らないやうに、学校の遊び時間には加賀田さんとばかり遊んで居ました。
加賀田さんの家《うち》は堺《さかひ》の最も旧《ふる》い家でした。山太郎《やまたらう》とその家のことを呼んで居ました。 余りに勧められまして、私は或時初めての友人訪問に加賀田さんの家《うち》へ行きました。玄関へ加賀田さんが出て来て、上れと云はれて憶《おく》し心を隠して其《その》人に随《つ》いて行きますと、幾室かを通つてそれから出た所は明るい庭の前でした。その縁側は一|間《けん》以上もある幅で、そして何処《どこ》まで行けばしまひになるのか一寸《ちよつと》解《わか》らないやうに思はれるほど長く続いて居るのです。築山《つきやま》も池も花の植つた所も子供の目には見渡し切れなく思はれました。自分などの家と此処《ここ》との懸隔が余りに甚しいので、初めの廊下を曲つて更にまた折れた所の廊下がまた長く、然《しか》も庭の向うにはまだ幾棟かの建物があるのですから、それを見まして、心細いやうな一種の悲哀を覚えまして、
「私もう帰ります。帰りたくなつて来ました。」
と私は云ひました。
「何故《なぜ》。」
と加賀田さんは失望したやうに云ひました。
「何故でも帰りたくなつたの。」
「私の部屋がまだ遠いからだすか。帰りには彼方《あちら》から行けば直ぐ玄関へ出られます。」
と云はれましたけれど、私は、
「また来ますから今日は帰らせて下さいな。」
と云ひ通して、何千石かの酒の造られる匂ひの何処《どこ》からとなくする加賀田さんの家《うち》を出て来ました。それから間《ま》もなしに、加賀田さんが私の家へ来てくれたことがありました。私はそれまで外の方《かた》の処へ行つたことも尠《すくな》い代りに友達を家に迎へたのもこれが初めでした。ですからこんな時にはどうして遊ぶものか、友達も自分も面白いやうにするのはどうするのかが私の経験のないことで解らないのです。街の中の狭い家ですから庭などは四|坪《つぼ》か五坪位よりもないのですからどうしても室内で何かをしなければならないのです。人形を並べたり、小切《こぎれ》を出して見せたりはしても直ぐまた二人は膝の上へ手を重ねて置いて、今に楽みと云ふものが二人の傍《そば》へ自然に現れて出て来るはずだと云ふ風《ふう》に待たれるのでした。加賀田さんが、
「私もう帰ります。」
と云ひ出しました。
「さう。」
私は悲しくなりました。
「帰りたうなりましたから。」
「そんならお帰りなさいな。」
前の時に私がしたことを思ふと留《と》めることは出来ないのでした。かうして二人の会合は二度とも失敗に終つたのです。
それから一年か二年か経つてのことだと思ひます。次のやうなこともありました。学校のお午《ひる》に生徒の半分程は自家《うち》へ帰つて食事をする人でしたが、私も加賀田さんもその仲間でした。それで或時私は、
「ねえ加賀田さん、学校では好きぢやない方《かた》も交つて遊ぶのですから、私それよりもいゝことはないかと考へましたの、あのお午《ひる》に帰りました時ね、学校の太鼓のなるまでお旅所《たび》の処の大きい燈籠《とうろう》へ上つて遊ばないこと。」
こんな提議を加賀田さんにしました。
「さうだすな、二人でお家《うち》ごつこなんてして遊んだら面白うおますやろ、今日行きませう、燈籠へ。」
加賀田さんは直ぐに賛成をしたのでした。私は其《その》日のお昼飯を平生の半分の時間も使はず済ませて、急いで加賀田さんの門口《かどぐち》まで行きますと、もうおみきさんは先刻《さつき》から待つて居たと云ふのでした。二人は手を引き合つて住吉《すみよし》神社の宿院《しゆくゐん》のお旅所《たびしよ》の隣にある大燈籠の所へ行きました。石段が五六段あつて、二つの燈籠の並んだ廻りの石も二尺位の幅のあるものなのです。その二三日前に見知らない子が二三人その上へ上つて遊んで居るのを見て私は羨しく思つたのです。初めて上へ上つて見ますと、地上からは一|丈《ぢやう》も離れて居て、向うの青物市場《あをものいちば》などがよく見えて面白いのです。二人は燈籠と燈籠の間をお廊下だと云つて通つたり、二階から降りませうと云つて下へ降りたり、花園へ行くと云つて玉垣《たまがき》の傍《そば》に生えた草を摘んだりして居ました。丁度《ちやうど》二人が上に居て燈籠の脚元《あしもと》へ腰を掛けて居ます時に、突然わあつと云ふ声がして、ばらばらと穢《きたな》い物が寄つて来ました。それは乞食なのです。
「おい、何をしてる。」
「阿呆《あはう》。」
「降《お》れ、降《お》れ。」
「此処《ここ》は此方《こつち》の仲間のやで、おまん等《ら》の上る所やないで、阿呆。」
「えらい目に合せてやる。」
男も女も混つた子供の乞食なのですが、その着物のぼろ/\さは東京の乞食のやうなものではないのです。山蔭《やまかげ》の土に四|月《つき》も五|月《つき》もひつゝいて居る落葉のやうなものを着て居るのです。竹の棒やら、木の片《はし》やらを皆持つて居て私等の足に近い所を叩いて居るのです。私等二人は余りの驚きに物が云へなくなつて居ました。手をしつかりと取り合つて二人が狭い石段を降りますのに、下駄の先ががた/\と鳴つてなりませんでした。慄《ふる》へて居たのでせう。もう走つて行けばいゝのであると二人が思つて居ますと、
「おい。」
「唖《おし》か。」
二人は首を振りました。
「そんなら銭を持つてるやろからおくれ。」
二人はまた首を振りました。
「持つてへんで、阿呆やな。」
と一番大きい女の乞食が云ひました。
「そんならお菓子でもえゝやないか。」
と仲間の顔を見廻して云ふ乞食もあるのでした。
「鉛筆でもえゝ。色紙はないのか。」
何物かを私等から取り上げないでは済まさないと云ふ風《ふう》なのです。二人は唯《たゞ》胸をわくわくさせて居るばかりでしたが、そのうち巡査の影が見えたのでせう、乞食はまたばら/\と逃げて走りました。
加賀田おみきさんが病気か何かで暫《しばら》く休んで居たせゐなのですか何時《いつ》の間《ま》にか二人は一級違ひになつて居ました。おみきさんは小さい頃は習字などが私よりもずつと上手で大抵の試験に一番の席を取つて居た人でした。人形のやうに毛の厚いおけしを頭に置いた、色の白い目の切れの長いおみきさんは小さい声で物を云ふ人でした。
底本:「私の生ひ立ち」刊行社
1985(昭和60)年5月10日発行
入力:武田秀男
校正:福地博文
1999年3月3日公開
2001年11月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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