私の生ひ立ち
與謝野晶子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)黒繻子《くろじゆす》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)満|三歳《みつつ》になつて

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\なことを
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私の生ひ立ち 一

 学校へ行く私が、黒繻子《くろじゆす》の襟《えり》の懸つた、茶色地に白の筋違《すぢか》ひ雨《あめ》と紅《べに》の蔦の模様のある絹縮《きぬちゞみ》の袢纏《はんてん》を着初めましたのは、八歳《やつつ》位のことのやうに思つて居ます。私はどんなにこの袢纏が嫌ひでしたらう。芝居で与一平《よいちべい》などと云ふお爺《ぢい》さん役の着て居ますあの茶色と一所《いつしよ》の茶なんですものね。それは私の姉《ねえ》さんの袢纏だつたのを私が貰つたのだつたらうと思ひます。十一違ひと九つ違ひの姉《ねえ》さんの何方《どちら》かが着て居ましたのは恐らく私の生れない時分だつたらうと思ひます。大阪へ出て古着を安く買つて来るのがお祖母《ばあ》さんの自慢だつたやうですから、それも新しい切地《きれぢ》で私の家《うち》へ買はれて来た物でないと認めるのが当然だと思ひます。で袢纏の絹縮は其《その》頃から二十年位前に織られて染められて呉服屋の店へ出されたものであらうと今から思へば思はれます。私はこの袢纏を二冬程《ふたふゆほど》着て居たやうに思ひます。私はこの時分程同級生にいぢめられたことはありません。私が鳳《ほう》と云ふ姓なものですから、
「鳳さんほほづき。」
「鳳さんほうらく。」
 私をめぐつて起る声はこの嘲罵より外《ほか》にありませんでした。
「鳳さんほほづき、ほう十郎、ほらほつたがほうほ。」
 塀の上や木の枝の上から私に浴びせかけて、かう云ふのは男の同級生でした。私が学校の黒い大門を入りますと、もう半町程向うにある石段の辺《あた》りではほほづき、ほうらくの姦《かしま》しい叫びが起るのでしたから、私がこの悲い目に逢ふのも、一つは茶色のかうした目立つた厭な色の袢纏を着て居るからであると、朝毎《あさごと》に思はないでは居られませんでした。私は手織縞《ておりじま》の袢纏を着た友達を羨んで居ました。けれど私は絹縮の袢纏がぼろぼろに破れてしまひますまで、そんな話は母にしませんでした。私の母は店の商売の方に気を配らなければならないことが余りにあつて十分と沈着《おちつ》いて私達と向ひ合つて居るやうなことはありませんでした。また私とは違つて継母《まゝはゝ》に育てられて居る私の姉達が、いろ/\なことを一人々々が心一つに忍んだ淋しい日送りをして居るのを見て居《を》りますから、私も苦しいことを辛抱し通すのが人間の役目であると云ふやうに思つて居たらしいのです。私に始終意地悪ばかりをした水谷《みづたに》と云ふ男の子の顔は今でも思ひ出す時があつて気持ちが悪くなります。朝早くその子が登校して居ない間に私が行つて、教場の薄暗い隅の方などに隠れて居れば比較的無事なのですが、私の家《うち》は朝の忙しい商売で、学校へ子供達を出すのも大方は時間かつ/\なのでしたから、どうしても私は水谷のひどい罵《のゝし》りを受けた後《あと》でなければ先生のお顔を見られませんでした。水谷は頭に腫物《おでき》の跡が充満《いつぱい》ある、何時《いつ》も口から涎《よだれ》の伝はつて居る厭な厭な子でした。そして水谷は子供のくせに千筋縞《せんすぢしま》の双子織《ふたこおり》の着物を着て居ました。帯は黒い毛繻子《けじゆす》のくけ帯を貝《かひ》の口《くち》に結んで居ました。紺木綿《こんもめん》の前掛をして居ました。

 これも二年生位の時、先生は修身《しうしん》の話をしておいでになりましたが、
「あなた方、此処《ここ》に三羽のひよこがあるとしまして、二羽のひよこは今人から餌《ゑ》を貰つて食べて居ます。一羽のひよこはそれを見てます。さうするとその一羽のひよこはどんなことを思つて居ると思ひますか。解《わか》つている人は手をお挙げなさい。」
とお云ひになりました。手を挙げたのは僅に三人でした。私はもとよりその中ではありません。一番の子と二番の子と三番の浅野《あさの》はんがそれです。
「浅野はん。」
と先生は指名をなさいました。私はこのむづかしい問題を説き得たと云ふ浅野はんをえらい人であると思つて、後《うしろ》に居るその人の顔を振返つて眺めました。
「私も欲しいと思ひます。」
 浅野はんはかう云つただけです。先生は可否をお云ひにならずに、外《ほか》の二人を立たせて答をお聞きになりました。
「私も欲しいと思ひます。」
 皆この言葉を繰り返しただけです。私はつまらないことを考へる人達だと三人を思ひました。一羽のひよこが何を思つて居たかは、人間の子供の私達にさう容易《たやす》く解る筈《はず》はないが、何と云つてもそんな簡単なものでないと思つたのです。
「さうです。それに違ひありません。」
と先生はお云ひになりました。私はそれにも関らず一羽のひよこの真実《ほんたう》の心持が解りたいとばかり幾年か思ひ続けました。浅野はんの名はそのために今も頭に残つて居るのです。

 私は満|三歳《みつつ》になつて直《す》ぐ学校へ遣《や》られました。ですから遊びの方に心を引かれることが多くて、字を習ふ方のことを情けなく思つて居ました。私と同年《おないどし》の竹中《たけなか》はんが私の家《うち》へ遊びに来る約束をしてくれました。その日になりますと私は嬉しさに学校へ行く気になれませんでした。母がどんなに勧めても、私に附いて居る小い女中が促しても、私は今日は家《うち》で竹中はんと遊ぶのだとばかり云つて、学校へ出ようとはしませんでした。あなたがどんなに遊ばうと思つても、竹中はんは学校へおいでになるから、午後《ひるから》でなければ遊ばれませんよ、と女中が云ひましても、私はじつとして待つて居れば、楽しい時間の来ることが早いと云ふやうに信じて居るものですから、我儘《わがまゝ》を云ひ張つて、お盆にお菓子を充満《いつばい》載せたのを持つて来させて、隠居所の二階の八畳に女中と二人で座つて居ました。そして時々|欄干《てすり》の所へ行つて下の街を眺めました。それは竹中はんの影が見えないかと思ふからでした。そのうちに私はだん/\淋しい、心持になつて来ました。悔恨の悲みはもう私の胸にいつばいに広がつて居ました。竹中はんがおいでになつてから開けますと女中は云つて、庭向の方の雨戸はまだ閉めたまゝなのです。暗い縁側の方を向いて、こんな我儘をした私はもう本宅《おもや》へ行つて母にも姉にも逢はれないと云ふやうなことばかりを思ひました。そして昨日《きのふ》の約束は、双方の女中同志がしてくれたものの、竹中はんは真実《ほんたう》に来てくれるのだらうかと云ふ不安も感じないでは居られませんでした。欄干《てすり》の所へ倚《よ》つて見ますと、本宅《おもや》の煙突は午《ひる》近くなつてます/\濃い煙を吐くやうになり、窓の隙間から男女《なんによ》の雇人《やとひにん》の烈しく働いて居る姿の見えるにつけて、私は我儘者、不勉強者であると云ふことばかりが思われるのでした。色の白い細面《ほそおもて》の美くしい竹中はんが、女中と並んで十一時半頃に東の方から歩いて来るのを見ました時、私の胸にはどんなに高い動悸が打つたでせう。私の居る二階の下まで来ました時、竹中はんは上を一寸《ちよつと》見上げたまゝで、ずつと通つて行つてしまひました。失望して居る私に女中は午後《ひるから》を待てとも云ひませんでした。私も黙つて居ました。竹中はんは決して遊びに来てくれはしないとその刹那に感じました通り、その人とそれきり遊んだ覚えはありません。私はそれから満|五歳《いつつ》までは、学校通ひを止《や》めさせようと云はれて家《うち》に置かれて居ました。


私の生ひ立ち 二 狸の安兵衛/お歌ちやん

狸の安兵衛

 私の小い頃に始終家に出入りして居た車夫は、友吉《ともきち》と安兵衛《やすべゑ》の二人でした。安兵衛は狸の安兵衛と云はれて居ました。私はその人を真実《ほんたう》の狸とも思つて居ませんでしたが、人間とは少し違ふもののやうに思つて居ました。安兵衛は肱《ひぢ》に桃色をした花の刺青《いれずみ》がしてありました。友吉は顔に黒子《ほくろ》が幾つもある男でした。私の家《うち》ではどう云ふ理由《わけ》でか友吉の方を重んじて居ました。父と母が外出する時には、必ず父は友吉の方の車に乗りました。母が女中を供にして行く時には、女中が安兵衛の車に乗せられました。この二人の男は、ある時相談をして車夫を廃《や》めて新しい事業を起すことにしました。私は父母の前で、その計画に就《つ》いて度々友吉の語つて居るのを聞きました。今から思つて見ますと、そんなことは大阪あたりで誰かの既にもうして居たことで、友吉等はその模倣者であつたのでせう。それは青や赤で塗つた箱馬車に子供を乗せて、一つの町を一廻《ひとまは》りして、降ろす時に豆と紙旗を与へるのでした。馬は真実《ほんたう》のでなく、紙ばかりでやはり赤や青で塗られたものでした。もとより自動車ではありませんから、誰かが押して歩いたものと思はれます。友吉と安兵衛は、揃ひの赤い洋服を着て居ました。友吉は御者台《ぎよしやだい》に居て喇叭《らつぱ》を吹いて居ました。安《やす》は後《うしろ》の板の上に立つて居ました。乗車賃は一銭位でしたらう。豆は三角の紙袋に入つて居ました。私は営業者の好意で、初めてから三日目位に、無賃でその馬車に乗せられました。ですから町々の辻を幾つ乗り越しても、乗車賃のかさむ心配はいらないのでした。私は入口の隅に腰を掛けて居ました。安兵衛の顔の近く見える方が心丈夫だつたのです。私の親しい同《おなじ》町内の子供達が、皆旗を貰つて馬車からばら/\と帰つて行き、薄見知《うすみし》りの顔の交つた隣町の子供等にも別れ、終《しま》ひには誰一人|馴染《なじみ》のない子供等の中に、私だけが交つて行くことになつたのです。窓から外を眺めますと、人通りの少くて町幅の広い寺町《てらまち》に来て居ました。友吉はぱつぱつぱつ、ぱぱつ、ぱぱつと喇叭を吹きました。どんなにその音が私に悲しかつたでせう。車が停《とま》つた時に、安兵衛は私の淋しい顔を見て、
「嬢やん、豆あげまひよか。」
と云ひました。
「ちつとも欲しいことない。帰りたいのや。」
 涙がほろほろと零《こぼ》れました。
「いきまへんな。一番終ひに送つたげまつせ。」
 私は仕方なしに点頭《うなづ》いて居たのでせう。私の家《うち》のある方を背にして、車は南へ南へと行きました。私はそれきりその馬車に乗つた覚えはありません。何でも大人達の話で聞くと、友吉と安兵衛の仕事は一月《ひとつき》も続かなかつたのださうでした。損を余程沢山したとかも聞きました。二人はまた同時に車夫に帰つて、私の家《うち》の父や番頭の大阪行を引いて来た後《あと》を、銀場《ぎんば》の板《いた》の間《ま》で向ひ合つて食事などをして居ました。この二人が運んで行くのに余る大阪行の人数である時には、がた馬車がよく雇はれて来ました。私はその時分満|四歳《よつつ》位だつたと思ひます。私と弟とが母と姉の中に腰を掛けた馬車の中の向側には、妹を抱いた乳母《うば》や女中が居ました。親類の小母《をば》さんなども居ました。私の家の大阪行には、必ず決つた様式がありました。春であるなら遅い早いにかゝはらず、牡丹《ぼたん》で名高い吉助園《きちたすゑん》と云ふ植木屋へ最初に行くのです。それから上本町《うへほんまち》の博物場へ廻るのです。中《なか》の島公園《しまこうゑん》へも行くのです。そして浪華橋《なにはばし》の下の生洲《いけす》の網彦《あみひこ》と云ふ川魚料理の船で、御飯を食べて帰るのでした。こと、こと、ことと浪華橋の下駄の音がする時に、私等は船の障子を開けて、淀川《よどがは》の水をちやぶちやぶと手で弄《もてあそ》ぶのが、どんなに楽いことでしたらう、その頃の私
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