等に。
お歌ちやん
お照《てる》さんは向ひの仏師屋《ぶつしや》の子で、私より二つの歳上《としうへ》でしたが、背丈は私の方が高いのでした。お春《はる》さんはその人の姉《ねえ》さんでした。隣の藍玉屋《あゐだまや》には、より江《え》さんと云ふ子がありました。それは私に同年《おないどし》でした。その姉《ねえ》さんが茂江《しげえ》さんで、そのもう一つ上が幾江《いくえ》さんでした。斜向《すぢむか》ひの角の泉勇《いづゆう》と云ふ仕立屋の子は、お歌《うた》ちやんと、名を云ひました。お歌ちやんは優しくて女のやうな気のする兄《にい》さんと、菊石《あばた》の顔にある嫂《あによめ》に育てられて居るのでした。両親はもうありませんでした。私が学校へ行き初めた頃、力にしたのはこのお歌ちやんでした。小い姉がお歌ちやんによく頼んで置いたと云つてくれませんでしたら、七歳《なゝつ》になつて再入学をしました私は、また学校を恐がつたかも知れません。お歌ちやんは三歳《みつつ》位は私より大きい子供でした。前髪と後毛を円《まる》く残したあとを青々と剃つた頭をして居ました。私は毎朝お歌ちやんを誘ひに寄りました。
「お歌ちやん、おていらへ。」
かう呼ぶのです。寺子屋へ行く子供等の習慣《ならはし》が、まだ私の小い頃にまで残つて居たのです。私はお歌ちやんの家《うち》へもよく遊びに行きました。苔で青くなつた石の手水鉢《てうづばち》に家形《やかた》の置いてあるのがある庭も、奥の室《ま》も、静かな静かなものでしたが、店の方には若いお針子《はりこ》が大勢来て居ましたから、絶えず笑ひ声がするのでした。恥しがりの私も、遠慮がちなお歌ちやんも、その仕事場へは一度も行つたことがありませんでした。私の小い姉も、其処《そこ》へ稽古に来て居ました。仏師屋のお春さんや藍玉屋の茂江さんは、よくお歌ちやんをいぢめました。私はある時どうしたのかいぢめる連中に交つて居ました。私の家《うち》の軒下にお春さんが参謀長のやうに立つて居て、泉勇のお歌ちやんの居る窓の下へ、いろいろとお歌ちやんの悪口を云つて遣《や》らせるのです。私は通りを横ぎつて向ふへ走つて行き、歌のやうなことを云ふのが唯《たゞ》面白かつたのです。このことが姉から母に聞えまして、母は私をひどく叱りました。
「お歌ちやんのやうないい子に、意地わるをするやうな子は、子やない。」
とも云はれました。私が悪いことと知りながらした罪に就《つ》いて、また可《か》なり大きい後悔をしないでは居られませんでした。お歌ちやんに詫《あやま》りますと、
「そんなこと云ひなはらんでもええ。」
と云つて私の肩を撫でてくれました。ある日姉が、
「お歌ちやんが死にやはつた。」
と私に話しました。悲しく思つたに違ひありませんが、その時の心持などはよく覚えません。お歌ちやんは、十歳《とを》だつたと云ふことです。
「薄倖《ふしあはせ》なお歌ちやん。」
「賢い子やつた。」
誰も皆かう云つてました。お歌ちやんが居なくなつてから、私はどうしてもお照さんや茂江さんの仲間へ入つて遊んで貰はなければなりませんでした。その中で意地悪でない人は、私と同年《おないどし》のより江さんだけでした。
私の生ひ立ち 三 お師匠さん/屏風と障子/西瓜燈籠
お師匠さん
藤間《ふぢま》のお師匠さんは私の家の貸家《かしや》に居ました。その隣には私の母の両親が隠居をして居ました。私はそれから間もなく死別れたその母方の祖父の顔は、唯《たゞ》白髪《しらが》を長くして後撫《うしろな》でにした頭つきと、中風《ちゆうぶ》になつて居たために何時《いつ》も杖を突いて居たその腰つき位が記憶にあるだけですが、お師匠さんの顔ははつきりと覚えて居ます。大きい目や、油ぎつたやうな色をした広い額や、薄い髪の生際《はえぎは》やは、今も電車の中などで類似の顔に逢ふと思ひ出されるのです。私はお師匠さんに何年程|踊《をどり》を習つて居たのでせう、それとも幾月と云ふ程だつたのでせうか。舞扇《まひあふぎ》を使ひ壊して新しく買ふことはかなり幾度もありました。私の大きくなつてからはありませんでしたが、その頃舞扇を売つて居た家の店のことなども私はよく覚えて居ます。新しくて美しい飾りのしてある店でした。私が扇屋へ行く使《つかひ》の丁稚《でつち》に随《つ》いて行つた時、丁稚の渡す買物帳を其処《そこ》の手代《てだい》が後《うしろ》の帳場へ投げました。そしてかちかちと音をさせて扇箱から出した五六本の扇が私の丁稚に渡されました。私はその扇が母の前へ持つて来られて、開いて見せて貰ふのがどんなに楽みだつたか知れません。私は稽古|朋輩《ほうばい》の持つて居るやうな塗骨《ぬりぼね》の扇が欲しいと心に願つて居たのでした。私はさうして塗骨の銀の扇の持主になりました。絵は桜の花で、四分通りの地が薄紅《うすべに》につぶされて居ました。母は舞扇が買はれる度に、扇の上に切地《きれぢ》で縁を附けるのが好きでした。好きと云ふよりもせねばならないこととして母はさうしたのです。扇が畳目《たゝみめ》から早く切れて破扇《やれあふぎ》になるのを惜んだのです。けれどその体裁は極めてよくないものでした。扇を襟《えり》の間にさした時、私の扇は他人の三倍もかさがありました。銀地の扇に母の附けた縁は紫のめりんすでした。私が生地骨《きぢぼね》で赤地の扇に金銀の箔の絵を置いたのを持つて居たこともありました。絵は御簾《みす》にそれも桜で、裏に蝶が二つ白抜きで附いて居ました。それには桃色の縁がとられてました。桔梗《ききやう》の花の扇は大阪の誰かから貰つた物でした。
「かうして縁を取りやはるとよう持つんだつせ、この嬢やんのお母《かあ》はんの新案だつせ。」
お師匠さんは私の扇を弟子入に来る子の母親などに開いて見せたりしました。私はそれを恥しく思ひました。
師匠の家のさらへ講に私が踊ることになつたのは「流しの枝」と云ふ曲でした。私は黒地の友染《いうぜん》の着物を着て出ました。模様の中に赤い巴《ともゑ》のあつたことを覚えて居ます。丁度《ちやうど》その日に私の家ではお祖母《ばあ》さんが報恩講《ほうおんかう》と云ふ仏事を催して多勢の客を招いて居ました。私はそれを余所《よそ》にして踊の場へ行くのが厭《いや》だつたのでした。私は楽屋でお膳のないのを悲みながら、煮魚のむしつたので夕飯を食べさせられました。この時も大勢の弟子の中でお師匠さんは私を一番大事にしてくれました。踊の済んだ時に、もうこれでいゝと思つた心持と、地方《ぢかた》の座を背にして、扇を膝に当てながら歌の起るのを待つて居た記憶はありますが、その間の気分などは皆忘れてしまひました。
お師匠さんはお酒が好きでしたが、そんなことが病の原因《もと》になつて、死んでしまはれたのではないでせうか。
屏風と障子
西洋好《せいやうずき》の私の父は西洋から来た石版画《せきばんゑ》で屏風が作らせてありました。私はその絵の中で一番端にはられた、青い服に赤いネクタイをした子供の泣いて居る絵がどんなに嫌ひだつたか知れません。これは阿呆《あはう》な子で、学校へ行くのが厭だと云つて居るのですと老婢《らうひ》はよく私に教へました。さう云はれます度に私は身慄《みぶる》ひがしました。またその横に、母親に招かれて笑ひながら走り寄つて来る子供の絵もありました。私はそれを家中で大騒ぎをされて可愛がられて居る弟のやうな子だと思つて居ました。口の傍《そば》に厭な線を充満《いつぱい》寄せて泣いて居る子の方は、人から見て自分になぞらへられるのではあるまいかと思ふやうなひがみを私は意識せずに持つて居たかも知れません。和蘭陀《オランダ》の風車《かざぐるま》小屋の沢山並んだ野を描いた褐色の勝つた風景画は誰が悪戯《いたづら》をしたのか下の四分通りが引きちぎられてました。私の父はまた色硝子《いろがらす》をいろいろ交ぜた障子を造つて縁《えん》へはめました。廊下にもはめました。欄間《らんま》もそれにしました。一家の者が開閉《あけたて》の重い不便さを訴へるので、父は仕方なしにそれを浜の道具蔵へしまはせてしまひました。けれど欄間だけは長く其儘《そのまゝ》でした。私は欧州へ見物に行きました時、古い大寺のかずかずを巡つたのでしたが、その色硝子で飾られた窓の明りを仰ぎます度に、私は父のことや幼い日のことが思はれるのでした。
西瓜燈籠
これはもう大分《だいぶ》大きくなつてからのことです。藤間のお師匠さんの所へ通つて居た頃から云へば、五年も後《のち》の十歳《とを》か十一の時の夏の日に、父が突然私のために西瓜燈籠《すいくわどうろう》を拵《こしら》へてやらうと云ひ出しました。どんなに嬉しかつたか知れません。老婢は早速八百屋へ走つて行つて、ころあひの小い西瓜を選《え》つて買つて来ました。父は私にどんな模様がいゝかと尋ねましたが、私は何でもいゝと云つて居ました。出来上りましたのは一面に匍《は》つた朝顔の花の青白く光つて透き通る美しさの限りもなく思はれる燈籠でした。その晩軒に吊して置きますと通る人で振返つて賞めて行かないものはない程でした。父は翌日また弟に馬の絵を彫つた燈籠を作つてやりました。その夜の涼台《すゞみだい》の上には朝顔のとそれが並んで吊されました。三|疋《びき》の馬が勢よく飛び上つて居る図がらの好《い》いのを、また街を通る人々が賞めて行きました。私は少し自分のがけなされたやうな悲みを感じました。三日目に父は妹のために楓の葉と短冊を彫つた燈籠を作りました。それは朝顔などの線の細い模様とちがつて、くつきりと浮き出したやうな鮮明《あざやか》さは何にも比べやうもない美しいものでした。三つの燈籠はまたその夜涼台の上に吊されました。老婢が気を附けて、萎《しな》びぬやうにと井戸端の水桶の中に、私の燈籠は前夜もその前夜も入れられてあつたのですが、それにも関らず青白かつた彫跡《ほりあと》は錆色《さびいろ》を帯び、青い地は黒い色になつて居るのです。形も小くなり丸かつたものが細長いものに変つて居るのです。私は生れて初めて老《おい》と云ふことと死と云ふことをその夜の涼台で考へました。早く生れたものは早く老い、早く死ぬとそれ程のことですがどんなに悲しく遣瀬《やるせ》ないことに思はれたでせう。私はそれを足つぎをして下《おろ》さうとはせずにそのまゝ眺めて居ました。
次の年には父は誰のとも決めずに流《ながれ》を鮎の上る燈籠を西瓜で彫つてくれました。私はその時にはもう生命《いのち》の悲みなどは忘れて、早く自分も何かの絵を西瓜に彫つて、燈籠を作るやうになりたいとばかり思つてました。
私の生ひ立ち 四 夏祭
夏祭
お正月の済んでしまつた頃から、私等はもうお祓《はらひ》が幾月と幾日《いくか》すれば来ると云ふことを、数へるのを忘れませんでした。お祓の帯、お祓の着物と云ふことは、呉服屋が来て一家の人々の前に着物を拡《ひろ》げます度に、私等|姉妹《きやうだい》に由《よ》つてさゝやかれました。大祓祭《おほはらひまつり》は摂津《せつつ》の住吉《すみよし》神社の神事の一つであることは、云ふまでもありませんが、その神輿《みこし》の渡御《とぎよ》が堺《さかひ》のお旅所《たびしよ》へある八月一日の前日の、七月三十一日には、和泉《いづみ》の鳳村《おほとりむら》にある大鳥《おほとり》神社の神輿の渡御が、やはり堺のお旅所へありますから、誰もお祓と云ふことを、この二日にかけて云ふのです。住吉さんのお渡り、大鳥さんのお渡りと一日一日を分けては、かう云ふのです。それで七月三十日から、もうお祓の宵宮祭《よみやまつり》になるわけなのです。大阪であつても、私の郷里であつても、彼方《あちら》の地方の人は、万人共通に何事かの場合に着る着物の質の標準と云ふものが決まつて居ます。それで宵宮の日には、大抵の人は其《その》年新調した浴衣《ゆかた》の中の、最も善いものを着るのです。唯《たゞ》一枚よりその夏は拵《こしら》へなかつたものは、大人でも子供でも、その日まで着ずにしまつて置くので
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