す。
浴衣を着て涼台《すゞみだい》へ出ますと、もう祭提灯《まつりちやうちん》で街々が明くなつて居ます。私の町内の提灯は、皆|冑《かぶと》の絵がかいてあるのでした。隣町は大と云ふ字、そのまた隣町は鳥居《とりゐ》と玉垣《たまがき》の絵だつたと覚えて居ます。私は正月の来る前の大三十日《おほみそか》の日よりも、この宵宮の晩の方が、どれ程嬉しかつたか知れません。紀州の和歌山から、国境の峠を越して来る祭客の中に交つて来る少女《をとめ》達、大阪から来る親類の少女《をとめ》達、其等《それら》は何《いづ》れも平常《ふだん》に逢ふことが稀で、大方は一年振で祭に出逢ふ人達なのですから、その一|行《かう》一|行《かう》が、明日から明後日《あさつて》へかけて、続続家へ着くことを想像するだけでも嬉しいのでした。何事に就《つ》きましても、正月からもう指折《ゆびをり》数へて毎日引き寄せたく思つた日が、いよいよ目の前に現はれて来るのですもの、来たらじつと捉《とら》へて放つまいと云ふやうに気が上《あが》るのです。大人達も皆嬉し相《さう》で、その夜は例よりも、長く長く涼台が門《かど》に出されてあります。一度|蚊帳《かや》の中へ入つても、祭の当日の話が大人達の中に余りはづみ上ると、また帯をして外へ飛び出したくなつたり私はしました。そしていよ/\大鳥さんの日になります。私の家のやうな商買をして居ない人の所では、朝からもうお祭のことばかりをして居ていゝのですが、私の家などは、さうは行かないのです。得意先の注文の殊に多いのがさうした日の常ですから、午前中は私も店の手伝ひに、勇気を出して働かねばなりませんでした。丁稚《でつち》に交つて水餅《みづもち》を笹の葉へ包んだりすることも、手早にせねばなりませんでした。けれどもその騒ぎは、何時《いつ》の間にか土蔵《くら》から屏風や、燭台や、煙草盆や、碁盤やを運び出す忙しさに変つて居るのが例でした。幕が門《かど》に張られ、黒と白の石畳みになつた上敷《うはしき》が店に敷かれ、その上へ毛氈《もうせん》が更に敷かれ、屏風が立てられますと、私等は麻のじんべゑ姿がきまり悪くなりまして、半巾《はんはゞ》の袖を胸で合せて、早く湯の湧くやうにして欲しいと女中に頼みました。そのうち空の雷鳴が遠くから次第に近い所へ寄つて来るやうに響いて、地車《だんじり》の音がして来ます。大海浜《だいかいはま》、宿院浜《しゆくゐんはま》、熊野浜《くまのはま》などと組々の名の書いた団扇《うちは》を持つて、後鉢巻《うしろはちまき》をした地車《だんじり》曳きの子供等が、幾十人となく裸足《はだし》で道を通ります。風呂に入りますと、浴槽《ゆぶね》の湯が温泉でも下に湧き出して居るやうに、地車《だんじり》の響で波立ちます。大鳥さんの日の着物は、大抵紺地か黒地の透綾上布《すきやじやうふ》です。襦袢《じゆばん》の袖は桃色の練絹《ねりぎぬ》です。姉は水色、母は白です。男作《をとこづく》りと云つて小い時から、赤気の少い姿をさせられて居る私等のやうな子のさせられる帯は、浅黄繻子《あさぎじゆす》と大抵決まつて居ました。襦袢の襟《えり》もそれです。頭はおたばこぼんですから、簪《かんざし》の挿しやうもありません。そして私等はその年方々の取引先から贈られました団扇の中で一番気に入つたのをしまつて置いたそれを持つて、新しい下駄を穿《は》いて門《かど》へ出ます。何方《どちら》を向いても桟敷欄干《さじきてすり》に緋毛氈の掛けられた大通りは、昨日《きのふ》と同じ道であるとも思はれないのでした。友も連立つてまた其処《そこ》此処《ここ》の友の家を訪ねる私等の得意さは、天へも上《のぼ》つた程なのです。正月から待ちに待つた日が来たのだからと、心の中では云ふものがありました。私等は時々家を覗きに来ます。それは余所《よそ》からのお客が、もう幾人殖えたかと見るのが楽みなのです。四五時頃には、もう大鳥さんの太鼓の音が、どん、どおん、と南の方に聞え出します。祭列は四町程で尽きます。続いて神輿も通ります。全堺の町が湧き立つやうな騒ぎになるのは、この時から後《のち》なのです。いよいよ大鳥さんの渡御が済んで、人々は真実《ほんたう》のお祓の宵宮の心もちにこの時からなるからです。誰も眠る者などはないと云ふのはこの晩のことでした。家の中には幾十となく燭台が点《とも》されますが、外を通る人々の手に手にした灯《ひ》の明りの方が、更に幾倍した明さを見せて居ました。魚の夜市が初まると云ふので、誰も皆浜辺の方を向いて歩いて行くのです。私の家《うち》のお客様は、皆その夜市を見に行きます。私等は翌朝の住吉|詣《まう》での用意をさせられます。汽車があつても祭の各町を眺めて通るのが面白いために、住吉までを車で行くのが多いのでした。夜明の社《やしろ》の御灯《みあかし》の美くしさ、ほのぼのと晴れる朝霧の中の、神輿倉の七八つも並んだ神輿の金のきらきらと光つて居るのを見る快さは、忘れられないものです。蓮池の蓮を見たり、鯉に餌《ゑ》を遣《や》つたりしますことも、何時《いつ》も程落ついては出来ません。気が急いで大和川《やまとがは》を渡る時も、川上の景色、川口の水の色を眺めたりすることも出来ません。朝御飯を食べますともう住吉踊が来ます。
すみようしさんまいの
と拍子ごとに云ふ踊で、姿は白衣《びやくえ》に腰衣《こしごろも》を穿いた所化《しよけ》を装つて居るのです。踊手は三人程で、音頭とりが長い傘をさして真中に立ち、その傘の柄を木で叩くのが拍子なのです。私等はこの時には大鳥さんの宵宮の晩に着た浴衣を着て居ます。昼間浴衣を着て人の怪まないのは夏中でこの日だけ位なものです。この日も晴着に着替へますのは、やはり二三時頃のことです。縮緬《ちりめん》が多く着られます。薄色の透綾も着られます。錦《にしき》の帯、繻珍《しゆちん》の帯が多くしめられます。緋縮緬や水色縮緬のしごきがその帯の上から多く結ばれます。けれども私等のやうな男作りの子は割合軽々とした姿で居ます。扇を今日は皆持ちます。子供心にあらゆる諸国の人が集つたかと思はれた程この日には遠い田舎《ゐなか》からも見物に出て来る人で道が埋つてしまひます。私等はもう昨日のやうに、芝居の花道を歩くやうに、大道を練つて歩くことも出来ないのです。だんだんと街々の騒ぎは高くなつて行きます。新柚《しんゆ》の香が台所から立ちます。祭列を見るのは夜の十時頃です。海のやうに灯の点つた町を通るのでありながら、やはり夜のことですから、お稚児《ちご》さんの顔などは灰白《はひじろ》く見えるだけです。馬上の鼻高《はなだか》さんの赤い面も黒く見えるのです。私は刻々不安が募つて行きます。それは今日に変る明日の淋しい日の影が目に見えるからです。
私の生ひ立ち 五 嘘
嘘
九歳《こゝのつ》位で私の居た級では継子話《まゝこばなし》が流行《はや》りました。石盤へ箱を幾つも積み重ねたやうな四階五階の家を描いて、草書の下と云ふ字のやうなものを人だとして描いて、蒲団《ふとん》[#底本では「薄団」と誤植]の中へ針を入れて置いたりする鬼のやうな継母《まゝはゝ》の話ばかりを、友達等は毎日しました。一人が話し出しますと、大抵七八つの首がその石盤を覗く、そんなかたまりが教場の彼方此方《あちこち》で出来ると云ふのが、遊び時間の光景でした。継子と本子《ほんこ》の名には、大抵おぎん小ぎんが用ゐられて居ました。私はもうそれに飽き飽きしました。今日もまた厭《いや》な話を聞かされるかと云ふやうな悲みをさへ登校する途々《みち/\》覚えました。私はもとより一度も話者《はなして》にはなりませんでした。ところが或日の昼の長い遊び時間に私は、
「今日は私がお話をして上げます。けれど絵は描きません。自分の真実《ほんたう》の話なんですから。」
こんなことを突発的に云ひました。そしてそれから私の話したことは嘘ばかりです。私はその時もう父に伴《つ》れられまして、京都を見て来て居ました。外《ほか》の人達にはその経験がないのです。けれど皆祖父母や親達の口から、西京《さいきやう》と云ふ大きい都、美くしい都の話だけは聞いて居て、多少の憬《あこが》れを持つて居ない者はないのです。一度行つたことのある私は、その以後人の話に注意をして、京でまだ自分の知らぬ名所や区の名などを覚えたり、或いは想像して見たりすることがあつたのです。
「皆さん、私は京都に家《うち》があるのです。今迄隠して居ましたけれど。」
誰一人|真実《ほんたう》かと問ふ者もありません。皆驚きの目を見張つて居るだけです。
「では継子なんですか。」
「ええ、けれど私は京に居ても、継母を持つてたのですよ。初めから継子ですよ。」
「可哀相なこと。」
と口々に云つて、私の背を撫でたりする人もありました。何時《いつ》の間《ま》にか外《ほか》の継子話に寄つた人達も私の傍《そば》へ皆出て来ました。
「私の家は京の三条通りなんです。横町は松原通りです。」
松原も三条も東西の通りですが、私はこんなことを云つてました。
「そして家《うち》の左の方は加茂川《かもがは》なのです。綺麗《きれい》な川なのですよ、白い石が充満《いつぱい》あつてね、銀のやうな水が流れて居るのです。東山《ひがしやま》も西山《にしやま》も北山《きたやま》も映ります。八坂《やさか》の塔だの、東寺《とうじ》の塔だの、知恩院《ちおんゐん》だの、金閣寺《きんかくじ》だの銀閣寺《ぎんかくじ》だのがきらきらと映ります。」
「まあそんなにいゝとこだすか。」
「ええ、家《うち》の裏の木戸を開けて、石段を下りて、それから小い橋をとん/\と踏んで行くと、河原なのです。河原は夏なんか涼しくつてねえ。」
「継母は。」
「継母はこはいこはい継母でしたよ。こはいこはいこはい。」
私はかう云つて、次に云ふことを考へなければなりませんでした。
「私の家《うち》は友染屋《いうぜんや》なのです。縮緬《ちりめん》の友染屋なのですよ。あれはね、染めた後《あと》で川で洗はなければならないのです。私なんかも洗うのですよ。ぢやあないと継母が叱りますからねえ。」
「まあえらい、洗濯をしなはつたの。」
「ええ、日に二十|反《たん》位洗つては河原へ乾《ほ》しますの。」
「雨が降つたらどうするのだす。」
「そしたら雨が降つて来たのです。困つてねえ、私は。雨の水と川が一緒になつて、縮緬が流れるでせう。私は継母に叱られますから、何でも拾はうと思つてね、ずん/\加茂川の岸を走つて追つかけたのです。走つて走つて一晩走つて居ると、伏見《ふしみ》へ来たのです。」
「拾へたのだすか。」
「いいえ。」
「まあ。」
「たうとう見失つてしまつたのでせう。継母に叱られたらどうしようと思つて私が泣いて居ると、親切なお婆さんが来てね、私をその家《うち》へ伴《つ》れて行つてくれたのですよ、私の子におなりなさいつてね。」
「まあよかつたこと。」
「けれど貧乏でね、お米ではなくて藁《わら》でお餅なんか拵《こしら》へて食べるだけなんです。」
「藁でお餅が出来《でけ》るんですか。」
「出来《でき》るんですよ。それにね豆の粉《こ》を附けてお婆さんは売りにも行くのです。清水《きよみづ》さんの滝の傍へ茶店を出してねえ。」
「清水さんは京だすか。」
「ええ、滝が三本になつて落ちて居てね、人が何時《いつ》も水を浴びてます。」
自分の見た時がさうだつたものですから。
「その人が藁のお餅を買ふのだすか。」
「もつと外《ほか》の人も買ふのです。よく売れてね、忙しくつてね、夜分まで家《うち》へ帰れないのです。お婆さんが先に帰つて、私が後《あと》で店をしまつて帰るのでしたがね、大谷《おほたに》さんと云ふお墓のいつばいある山を通るのですから、恐くつてねえ。」
「こはいこと、まあ。」
「さうしたらある時|人取《ひとと》りが出て来たのですよ、頬かぶりして刀を差してね、それから手下が二人です。手下は槍を持つて居るのです。」
「刺されたんだすか。」
「ええ、突かれたけれど、もう癒りました。」
「何処《ど
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