城《かつらぎ》山脈になつて居ます。近い所には大仙陵《だいせんりよう》が青色の一かたまりになつて居ます。後《うしろ》を向いて街の方を見ますと、ずつと北の方に浅香山《あさかやま》の丘が見え、妙国寺《めうこくじ》の塔が見え、中央に開口《あぐち》神社の塔が見えます。私等が実を拾つて遊ぶ廻り二三|丈《ぢやう》もある開口神社の大木の樟《くす》が塔よりも高く見えます。塔は北にあるのも南のも三重屋根です。私はある時友達と一所《いつしよ》に、田圃へ螽斯《いなご》を取りに行つて狐に化された風《ふう》をしました。初めは戯談《じようだん》でしたのですが、皆がもうそれにしてしまふので仕方なしに続けてお芝居をして居ました。私は最初赤いしぶと花をいくつもいくつも取つてお煙草盆《たばこぼん》に結《ゆ》つた髪へ挿しました。
「皆さんも私と一所にあの御殿へ行きませうね。」
と云つて、御陵《ごりよう》の樋《ひ》の口《くち》に続いた森を指さしたりしました。私だけは父が迷信を極端に排斥したものですから、狐や狸のばかし話は嘘であると信じて居るのですが、友達は一人残らず住吉《すみよし》参りをした吉《きつ》つあんの話を真実《ほんたう》のことと思つて居たやうです。私もお菓子を持つて居るから狐が化すといけないと云つて、それを捨てる人、蜜柑は大丈夫だらうと云つて一旦捨てたのを拾ふ人、そんなことはをかしかつたのですが、榎茶屋《えのきちやや》の植木屋に親類のある人が水を汲んで来てくれたのを見まして、私は初めて悪いと思つて誤りました。天王様《てんわうさま》のお社《やしろ》は町から十町程離れてあるのです。堺の人の多くが春の花見をしに行く処です。山桜が社前に十二三本と、後《うしろ》の池を廻つて八重の桜が十本程もある位に過ぎないのですから、まあ大家《たいけ》の庭にも、ある程の春色とも云ふべきものなのですが、其《その》頃の和泉河内の野を一様の金色《こんじき》にして居る菜の花の香にひたらうとするのには好《い》い場所です。其処《そこ》を一町程北西へ隔つた所に方違《かたたがへ》神社があります。方《かた》ちがひさんと堺の人は皆云つてます。立春の日に鶴の羽を髪に挿した女達の参詣する所です。方違神社から真直《まつすぐ》に田圃の中を通つた道を町へ入つて来ますと、其処《そこ》は大小路《おほせうぢ》と云つて堺で一番広い町幅を持つた東西の道路になつて居ます。柳の木が並木とは云へないほどちらほらと植わつて居ます。大小路の東西十町の真中を十字形に通つた南北の通《とほり》が大道《だいだう》と云はれる所です。北は大和橋に続いて居ます。和歌山県の方へ大阪から続いた国道です。大小路の西の堀割《ほりわり》に掛つた吾妻橋《あづまばし》を渡ると、其処《そこ》には南海鉄道の停車場があるのです。堀割の水はもう海へ近い所ですから、引潮の頃にはまるでありませんが、さし潮になると小船をふかふかと動かすやうな浪も立つて居ます。停車場の横に泉洲紡績《せんしうばうせき》の工場があります。赤錬瓦塀の上に地獄のやうな硝子《がらす》かけを立てた厭な所です。夕方と朝に髪へ綿くづを附けた哀れな工女が街々から通つて行く所は其処《そこ》なのです。その前は新田《しんでん》と云つて、埋立地の田畑になつて居ます。停車場から南へ行くと堀割が折れて海へでる所にかかつた勇橋《いさみばし》に出ます。此処《ここ》から北西へかけての海辺を北坡戸《きたばと》と云ふのです。橋の南を真面に行きますと大浜《おほはま》の海岸通になります。旭館《あさひくわん》と云ふ富豪の遊場所《あそびばしよ》の石垣の長いのを通り越すと、もう漁師の家や貝細工を売る小家《こいへ》が並んで居ます。真直に真直に行けば海の中へ突出た燈台に出るまでその道は続いて居ます。昔は大きな船の入つた港だつた堺の海は、新大和川が川上の大和から無遠慮に砂を押し流して来るので、年々に浅くなるばかりで、今は貝を拾ふのに適した波らしい波も立たない所になつたのです。海辺には松も何も生えて居ません。大津《おほつ》の崎が淡路《あはぢ》とすれすれになつて見える遠い景色を好《い》いと見て居るだけの所です。旅館の建ち並んだ後《うしろ》に昔のお台場《だいば》があります。品川のと同じ式で唯《たゞ》海の中にないだけです。春は菫《すみれ》が沢山咲いて居ます。旭館の隣で、何とか云ふ名の小い丘の下に附いた道を曲つて街へ入つて来ますと、其処《そこ》の大道の角に私の家《うち》があります。大道をまた一町南へ行きますと宿院《しゆくゐん》と云ふ住吉神社のお旅所《たびしよ》があります。私の通つた小学校は宿院小学校と云つて、その境内《けいだい》の一部にあるのです。芝居や勧工場《くわんこうば》があつて、堺では一番繁華な所になつて居るのです。小学校の横を半町も東へ行きますと寺町《てらまち》へ出ます。大小路に次ぐ大きい町幅の所で、南へ七八町伸びて居ますが、寺ばかりと云つてよい程の街ですから静かです。向うの突当りが南宗寺《なんしゆうじ》です。千利久が建てたと云ふ茶室があります。私など少し大きくなりましてからは、折々お茶の会に行つたりしました。その隣は大安寺《だいあんじ》で私の祖母の墓があつたのでしたが、今では父も母も其処《そこ》へ葬られてしまひました。旧《もと》は納屋助左衛門《なやすけざゑもん》と云ふ人の家だつたのださうです。南宗寺の智禅庵《ちぜんあん》の丘の下を東から堀割が廻つて流れて居まして海へ出るやうになつて居ます。其《その》海辺は出島《でじま》と云ひます。もとより漁師ばかりが住んで居る所です。蘆が沢山生えて居る所です。蘆原《あしはら》とも云ひます。堀割の向う岸からはもう少しづつ松が生えて居まして、ずつと向うが浜寺《はまでら》の松原になるのです。木綿《もめん》を晒す石津川《いしづがは》の清い流もあります。私はこんな所に居て大都会を思ひ、山の渓間《たにま》のやうな所を思ひ、静かな湖と云ふやうなものに憧憬して大きくなつて行きました。
私の見た少女 南さん
南さん
南《みなみ》みち子さんは丈の短い襟掛羽織《えりかけばおり》を着た人でした。今から三十年に近い昔の其《その》頃の風俗は、総ての子供が冬はさうした形の襟掛羽織を着て居たに違ひありませんのに、私が特に南さんの羽織の短かさばかりを、その人のなつかしさと共に何時《いつ》も思ひ出さずに居ないのは、南さんの着た羽織は誰のよりも綺麗《きれい》なものだつたからだらうと思ひます。外《ほか》の子は双子《ふたこ》や綿秩父《めんちゝぶ》や、更紗《さらさ》きやらこや、手織木綿《ておりもめん》の物を着て居ます中で、南さんは銘仙《めいせん》やめりんすを着て居ました。藍《あゐ》がちな紫地に小い紅色の花模様のあつたものや、紺地に葡萄茶《えびちや》のあらい縞《しま》のあるものやを南さんの着て居た姿は今も目にはつきりと残つて居ます。それに南さんは色の飽《あく》まで白い、毛の濃い人でしたから、どんなものでも似合つて見えたのであらうと思はれます。目の細い、鼻の高い、そしてよく締《しま》つた口元で、唇の紅《あか》い人でした。南さんは大分《だいぶ》に大きくなるまでおけし頭でした。併《しか》し私がまだおたばこぼんを結《ゆ》つて居た時分に、南さんはおけしの中を取つて蝶々髷《てふ/\まげ》に結つて居ました。ですからもう差櫛《さしぐし》が出来たり、簪《かんざし》がさせたり、その時分から出来たのでした。南みち子と言ふ一人の生徒を羨まないのは、学校の中でも極めて小い組の人達だけだつたであらうと思ひます。どの先生も南さんを大事な生徒としておあつかひになるのでしたが、生駒《いこま》さんと云ふ校長先生にはそれが甚しかつたやうでした。私の小学校は千人近い生徒を収容して居て、大きい校舎を持つて居ましたが、その応接室は卓《ていぶる》を初め卓掛《ていぶるか》け、書物棚、花瓶までが南家の寄附になるものだと校長が生徒を集めて云つてお聞かせになつたこともありました。南さんは家の通称を孫太夫《まごだいふ》と云ふ大地主の一人娘だつたのです。南さんの家のある所は堺《さかひ》の街ではなく向村《むかふむら》と云ふのですが、それはいくらも遠い所ではなく、ほんの堀割《ほりわり》一つで街と別になつて居る村なのです。南さんの家は薄黄《うすき》の高い土塀の外を更に高い松の木立がぐるりと囲つて居ました。また庭の中には何蓋松《なんがいまつ》とか云ふ絵に描いたやうな松の木や、花咲く木の梢《こずゑ》の立ち並んで居るのが外から見えました。野からその南さんの家の見えますことは一二|里《り》の先へ行つても同じだらうと思はれる程大きいものでした。私の同級生の幾人かは日曜日毎に南さんの家へ遊びに行きました。私はそんな人達から一尺程の金魚の沢山沢山居ると云ふ池やら、綺麗な花の咲いた築山《つきやま》やら、梯子段《はしごだん》の幾つにも折曲つたと云ふ二階や、中二階、離座敷の話をして貰ふのが楽みでした。けれど私は人並を越した恥しがりでしたから一度も自身で行つて見たことはありません。南さんには何時《いつ》も一人の女中が附いて居ました。その時分の生徒が茶番《ちやばん》さんと云つた小使《こづかひ》の部屋で女中はお嬢さんのお人形を造つたりして何時《いつ》も待つて居ました。帯をだらりに結んで、白丈長《しろたけなが》を掛けた島田の女中は四五年の間|何時《いつ》も変らぬ同じ人だつたやうに思つてましたが、真実《ほんたう》は幾度か変つた別の女中だつたのかも知れません。
ある時に先生は、
「あなた方|室暖《まぬく》めと云ふものを知つて居ますか。」
と云ふことから暖炉《すとーぶ》の話をして下さいましたが、
「南さんのお家《うち》にだけはあるでせう。」
こんなことをお云ひになりました。私はこの時受くべき理由なき侮辱を私達は受けたと胸が鳴りました。ところが、
「私の家《うち》にそんなもの御座いません。先生。」
かう淡泊に南さんの答へたのを聞いて、私は瞬間の厭《いや》な心持が一掃されました。私はそれから一層南さんをなつかしく思ふやうになりました。その学校では、何か式をしたりするときには、先生から生徒へ、
「皆さんのお家《うち》の庭に花が咲いて居ましたら、それを少しづつ持つて来て下さい。」
こんな注文をなさいました。堺は古い昔から商業地になつて居まして、店や工場を重《おも》にして建築した家が多いのですから、庭はあつて常磐木《ときはぎ》の幾本かは大抵の大きい家にはあるとしても、底花の木や草花を養ふ日光が入りやうもありませんから、こんな時に生徒は花屋へ駆け附けるより外《ほか》の方法はなかつたのです。母に頼んで五|銭《せん》程の支出をして貰ひまして菊の花の二三本、春なら芍薬《しやくやく》の一つぐらゐを持つて行くやうな人ばかりでしたが、そんな時に南さんの家からは大きい車に花の切枝《きりえだ》を積んで下男に学校へ曳かせて来ました。南さんは行者久《ぎやうじやきう》さんと云ふ盲目《めしひ》で名高い音曲《おんぎよく》の師匠の弟子の一人でした。小いうちから琴も三味線も胡弓《こきゆう》も上手だつたのです。その師匠の大ざらへに沢山|刺繍《ぬひ》のした着物を着た南さんが三四人の附添ひと一緒に舞台へ行くのを会場の廊下で見ました時、私は南さんをお姫様のやうな人だと思ひました。学校の成績《せいせき》も私より南さんの方が確かに好《よ》かつたと思つて居ます。南さんは私によく、
「私の府会議員の叔父さんはおどけものですよ。私をからかつてばかりいらつしやるのですよ。」
「そのお方の家《うち》は何処《どこ》。」
「私の家《うち》の中よ、別になつて居ますけれど。それからね、その叔母さんもあるのですよ、その人はものを云はない人よ。叔母さんは母様《かあさん》が私を大阪へ伴《つ》れていらつしやる時には本家へ来て留守番をして下さるの。」
こんな話をして聞かせました。またその父や母に就《つ》いての暖い噂も始終聞かせてくれました。兄弟のない一人子《ひとりご》と云ふものの羨しさを私の子等と一緒
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