れてしまひました。
三時半頃に私が店へ出てのれんの間から外を見て居ますと色の白いひどい吊目の口の前へでた、丁度《ちやうど》狐のお面のやうな、柴田はにこ/\笑ひながら川端筋《かはばたすぢ》を東から出て来るのでした。電信柱の横で私から紙包を受取ると、狐の子供はまた飛ぶやうに帰つて行くのでした。
一月《ひとつき》も立つて後《のち》に私はまた新しい苦痛に合はなければなりませんでした。私と柴田の秘密を何時《いつ》の間《ま》にか知つた人が出て来たのです。それは和田《わだ》と云ふ人でした。
「あんたは柴田さんに毎日お菓子を上げてなはるんだすな。」
私は黙つて居ました。
「隠しても知つてます。あんたあんな人にお菓子なんぞ取られてないで私におくなはれ。そやないと先生に云ふ。」
これもまた脅迫者だつたのです。
「柴田さんには初めに私が悪いことをしたのでしたから。」
「私にさへくれゝば柴田さんがあんたに意地悪をしても私があんたに附いて上げる。」
「かうしませう、私、柴田さんとあなたの二人に上げませう。」
心弱い私はまたこんな約束をしてしまひました。それから後《のち》の私はもうお菓子も果物も見るだけでした。柴田の方ではもうちやんと和田のことを知つて居ました。そして私への要求がだん/\烈しくなつて来ました。
「お金を包へ入れて頂戴。」
かう柴田はある時云ひました。私はまたこれを行ふ道を考へねばなりませんでした。私はお祖母《ばあ》さんなどに貰つてありましたお金の中の銅貨を、二三枚だけ更に小銭に変へて貰ひました。毎日二|厘《りん》づつ柴田の菓子包へ入れてやりました。私は自分は弱者で強いものにいぢめられて居るのであるとは思ひながら、お銭《ぜに》の入つた包などを貰ひに来るのは、丁度年越しの晩の厄払ひの乞食のやうで、下等な子供であると狐の子供に対する侮蔑は、もとより十分持つて居ました。和田もお銭を入れてくれと云ひ出しました。これも必然の結果のやうに私は思つてゐました。その三月《みつき》程のうちに私は心理的にいろ/\の経験をしました。ある日、
「私は今日までのことが悪かつたと思ひますから先生に自分から申してお詫びをしますからさう思つて下さい。」
私はかう柴田に云ひました。私にはもうそれを云ひ出すだけの勇気が出来て居たのです。その時柴田が許してくれと云ふのにどんなに骨を折つたでせう。
私は女学校へ行つて居る頃に、一度街で柴田に逢ひました。柴田は島田を結《ゆ》つて居ましたが顔は昔のあの顔でした。
私の生ひ立ち 八 たけ狩
たけ狩
和泉《いづみ》の山の茸狩《たけがり》の思ひ出は、十二三の年になりますまで四五年の間は一日も忘れることが出来なかつた程の面白いことでした。他家《よそ》の子には唯事《たゞごと》のやうなそんなことも、遊山《ゆさん》などの経験の乏しい私には、珍しくて嬉しくてならなかつたのです。誰も誰も堺《さかひ》の子供が親達や身内の人に伴はれてする春の浜行きも、私は殆どしたことがありませんでした。私は友染《いうぜん》の着物なども着ないうちに、身体《からだ》の方が大きくなつてしまふことが多かつたのです。
あの茸狩は牡丹《ぼたん》模様の紫地の友染に初めて手を通した時です。帯は緋繻子《ひじゆす》の半巾帯《はんはゞおび》でした。大戸は下されたままで、横町《よこまち》に附いた土間の四枚の戸が開けられ、外に待つて居る車の傍《そば》へ歩んで出ました頃、まだ街は真暗でした。四時頃だつたと後《のち》に母は云つてました。真先《まつさき》の車は父で、それには弟が伴はれて乗つて居ました。私は母の膝の横に居ました。お菊《きく》さんと云ふ知つた女の人と、その子のお政《まさ》さん、私の従兄《いとこ》二人、兄、番頭、その外《ほか》の人は忘れましたが何でも十何輌と云ふ車でした。両側の家の軒燈《けんどう》のまたたいて居る大道《だいだう》を、南へ南へと引いて行かれるのでした。湊《みなと》の橋を渡りますと正面に見える大きい家で鶏《にはとり》が啼《な》きました。何時《いつ》の間《ま》にか私は母に倚《よ》りかかつて眠りました。
「これ、これ大鳥様《おほとりさま》のお社《やしろ》だよ。」
肩を叩かれて私が目を見上げますと左手に大きい鳥居《とりゐ》があるのでした。母は車上で手を合せて拝《はい》をして居ました。まだ薄暗いのですが、奥の方へ立ち並んで燈籠の胴が、ほのぼの白く木《こ》の間《ま》から見えました。その暁《あかつき》の大鳥神社の鳥居の大きかつたことは、全《まる》で人間世界を超越したもののやうに九歳《こゝのつ》の私には思はれたのです。帰りには上までもつとよく眺めませうと通つてしまつた後《あと》では思つて居ました。自身の行く山の名も村の名も私はよく知らないのです。今でも知りません。何《いづ》れ国境の山なのでせうが、紀州境ひなのか、河内《かはち》境ひなのか知りませんでした。道の細くなつたり、坂になつた所になりますと私等は車を降りて歩きました。ある丘のやうになつた村では、従兄が母に命令《いひつ》かつて湯葉《ゆば》を買ひに行きました。それから薪屋《まきや》の金右衛門《きんゑもん》さんの家までは、もう半里程だつたやうに思ひます。畑の間の路が少し広がつたと思ひますと、もう其処《そこ》が私の行く家の座敷の庭だつたのです。車を降りた所に縁側があるのでせう、座蒲団《ざぶとん》の並んだ畳が見えるのでせう、私は驚きました。門口《かどぐち》をくぐらないで直ぐ道からお座敷になつて居る家などを、町家育ちの私は初めて見たのです。
「何処《どこ》に松茸が出来て居るのでせう。」
と私はお政さんにそつと云つたりして居ました。
「山までは十町程御座います。」
と金右衛門さんは人々に云つて居ました。お茶を飲んで居ますと縁側の前へ村の子供が大勢集つて来ました。母は袋から用意して来たらしい餅菓子を出して、その子等へ二つづつ程分けて遣《や》りました。どんなに田舎《ゐなか》の子は喜んだでせう。私は初めて母のするいいことを見たと云ふやうにその時は思ひました。下駄を藁草履《わらざうり》に穿《は》き変へて、山へと云つて伴はれた時は、天へ上《のぼ》るやうな気分になつて居ました。
「此処《ここ》から上つて頂くのです。」
かう金右衛門さんに云はれました時、私はその絶壁のやうな山を、どんなに驚いた目で見上げたでせう。何かの木のやゝ細い幹を持つて伝ひ歩きをするやうにして人々は上りました。私などは一番|後《あと》だつたのでせう、傍《そば》にはお菊さんとお政さんが居ました。二三|間《げん》上ると松葉を上に被《かぶ》つた松茸が一本苔から出て居ました。
「あつ。」
と云つたのは三人|一所《いつしよ》でしたが、
「さあおとりやす。」
と譲つてくれましたのが、私にはもの足りませんでした。そのうちもう私は私、お政さんはお政さんと、いくらでも松茸の取ることの出来る所へ来ました。山の外側から内側の窪んだ所へ入つたのでせう。従兄の声や番頭の声がとんきやうに渓々《たに/\》から聞えて来ました。物を云つて山響《やまびこ》の答へるのを聞くのも面白く思はれました。松茸は取つても取つてもあるのですもの、嬉しさは何とも云ひやうがありません。母が何処《どこ》に居るか、弟がどうして居るかとも私は思つて見る間がありませんでした。
「お茶ですよ。」
と呼ぶ声が何処《どこ》からとなしに聞えて来ましたので、私等は暗い木の中から少し上の明るい、幾分道のやうになつた所へ出て来ました。後《うしろ》や横から一人来、二人来して呼び声の起つて居る所を皆がさして行きました。其処《そこ》は山の最も高い所と云ふことでしたが外輪の一角なのです。呼んで居た人、席を二三枚の毛布《けつと》で作つて居る人は、皆金右衛門さんの家の下男でした。大きい松の木の下で、瓦を囲つて枯枝を焚いた上には大きい釜が掛けられてあつて、松茸御飯の湯気がぶうぶうと蓋の間から、秋の青空めがけて上つて居るのでした。其処《そこ》へまた下男の一人は大きい重箱二つを一荷にして舁《かつ》いで来ました。
「さあお子様《こさん》方、お子さん方。」
と呼ばれて毛布《けつと》の上へ草履を脱いで上つた私達は、お重の中のお萩《はぎ》をお皿なしに箸で一つ一つ摘んで食べようとしました。小い従兄は、
「あツ辛《から》。」
と云つて、後《うしろ》向いて木の間から渓の方へ食べかけたお萩の餅を捨てました。塩餡《しほあん》だつたのです。私も面白半分に、
「辛い。」
と真似をして捨てましたが、悪いことをしたと直ぐ思ひました。松茸の御飯や、お汁や、それから堺から待つて来た料理やでおいしいお昼飯は食べましたが、父やその外《ほか》の人の酒宴《さかもり》が、何時《いつ》果てるとも見えませんのが困ることと思はれました。松の木の間からは遠い村里や、続きに続いた山脈の青が眺められました。心が悲しいやうな寂しいやうなものになつて居るのでしたから、弟を誘つたり、従兄を呼んだりして、もう一度松茸を捜しに行くこともしたくないのでした。金右衛門さんの指図で、私等はやつと山を下りることになりました。蜜柑畑へ更に伴はれるのです。酒宴《さかもり》の所で踊《をどり》を見せたりして居たお政さんも一所に行くことになりました。大人達は外《ほか》の道から帰ると云ふことでした。低い山に見渡す果てもない程に多くの蜜柑の木が植つて居ました。青い中に星のやうな斑点が蜜柑に出来た頃です。
「いくらでもおとりなさい。」
と云はれても誰も皆十五六よりは手に持てませんでした。手拭《てぬぐひ》の端へ包んで田舎者のやうに肩へ掛けて歩くのが、どんなに面白く思はれたでせう。しかも私のなどは帰り途《みち》の細い道で、大かたはころ/\と落ちてしまひました。今度の路は金右衛門さんの家の正面でなしに、座敷の左手の庭へ附いて居るのでした。其処《そこ》には鳥兜《とりかぶと》の紫の花が沢山咲いて居ました。
私の生ひ立ち 九 堺の市街
堺の市街
私はこの話のおしまひに私の生れた堺《さかひ》と云ふ街を書いて置きたく思ひます。堺は云ふまでもなく茅渟《ちぬ》の海に面した和泉国《いづみのくに》の一小都市です。堺の街|端《はづ》れは即ち和泉の国端れになつて居る程に、和泉の最北端にあるのです。摂津《せつつ》の国とは昔は地続きでしたが、今は新大和川《しんやまとがは》と云ふ運河が隔てになつて居ます。大和橋《やまとばし》はそれにかかつた唯一の橋です。水に流されて仮橋《かりばし》になつて居たことが二度程ありました。仮橋は低くて水と擦《す》れ擦《す》れでしたから、子供心にはその方を渡るのが面白かつたのでした。河原の蘆《あし》や月見草は橋よりもずつと高く伸びて両側から小い私の髪にさはる程でした。私には年に一度その河原でお弁当を食べる日がありました。それは蚊帳《かや》の洗濯に伴《つ》れて行つて貰ふ日のことです。五張《いつはり》、六張《むはり》の蚊帳を積んだ車の上に私等の兄弟は載せられます。下男やら店の丁稚《でつち》やらがそれを引いて行きますが、さすがに大通りは通らずに、六軒筋《ろくけんすぢ》と云つて両側に酒屋の蔵ばかりの建ち並んだ細い道を行きます。それでも道で人に逢ふと、
「するがやはんの蚊帳洗濯や。」
かう云はれるのでした。一|行《かう》には母などは居ません。手伝ひ人の小母《をば》さん位が重《おも》な人で、女中や雇ひお婆さんなどばかりです。綺麗な水のしやぶしやぶと云ふ音と人々の笑ひさゞめく声と河原の白い砂と川口の向うに見える武庫《むこ》の連山が聯想されます。街の東の仕切になつて居るのは農人町川《のうにんまちがは》です。これは運河と言ふよりも溝の大きいやうなもので、黒い泥の所々にぶく/\と泡立つ水が溜つた臭い厭《いや》な所です。然《しか》しそれには関りもない広い快い田圃《たんぼ》はどの街筋の出口にもかかつた土橋や石橋の直ぐ向うに続いて居ます。河内《かはち》の生駒山《いこまやま》や金剛山《こんがうざん》の麓まで眺める目はものに遮られません。南は国境の葛
前へ
次へ
全8ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング