を余程沢山したとかも聞きました。二人はまた同時に車夫に帰つて、私の家《うち》の父や番頭の大阪行を引いて来た後《あと》を、銀場《ぎんば》の板《いた》の間《ま》で向ひ合つて食事などをして居ました。この二人が運んで行くのに余る大阪行の人数である時には、がた馬車がよく雇はれて来ました。私はその時分満|四歳《よつつ》位だつたと思ひます。私と弟とが母と姉の中に腰を掛けた馬車の中の向側には、妹を抱いた乳母《うば》や女中が居ました。親類の小母《をば》さんなども居ました。私の家の大阪行には、必ず決つた様式がありました。春であるなら遅い早いにかゝはらず、牡丹《ぼたん》で名高い吉助園《きちたすゑん》と云ふ植木屋へ最初に行くのです。それから上本町《うへほんまち》の博物場へ廻るのです。中《なか》の島公園《しまこうゑん》へも行くのです。そして浪華橋《なにはばし》の下の生洲《いけす》の網彦《あみひこ》と云ふ川魚料理の船で、御飯を食べて帰るのでした。こと、こと、ことと浪華橋の下駄の音がする時に、私等は船の障子を開けて、淀川《よどがは》の水をちやぶちやぶと手で弄《もてあそ》ぶのが、どんなに楽いことでしたらう、その頃の私
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