年も囲ひもせずそのままで置かれてありました。夏の夕方などに散歩して居ますと、焼けた壁の小山のやうになつた中から、酒の香《か》が立つやうなことも幾年かの後《のち》にまでありました。終《しま》ひには雑草が充満《いつぱい》に生えて居ました。
 火事の時分に、大阪地方ではへらへら踊《をどり》と云ふ手踊の興業が流行《はや》つて居ました。赤い頬かぶりをして袴《はかま》を穿《は》いた女が扇を持つて並んで踊をするのです。へらへら踊の女役者は云ひ合せたやうに、何処《どこ》でも堺《さかひ》の大火と云ふやうな芸題《げだい》で、具清の人々が火の中を逃げ廻つて死ぬ幕を一幕加へました。道を歩いて居て、その無惨な看板の眼に入るたびに、私は逃げて走りました。
 具清の妹さんが、忠義な女中に手を引かれて医師の家へ通ふ姿を、私は火事の後《あと》でよく見ました。美しい人でした。


私の生ひ立ち 七 狐の子供

狐の子供

 三阪《みさか》先生は私を三年級から四年級へ掛けて教へて下すつた先生でした。人一倍|羞恥《はにかみ》の強い私には、小学校から女学校を通じて十幾年間に、真底から馴れて愛して頂くことが出来たのは、この先生だ
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