もゑ》のあつたことを覚えて居ます。丁度《ちやうど》その日に私の家ではお祖母《ばあ》さんが報恩講《ほうおんかう》と云ふ仏事を催して多勢の客を招いて居ました。私はそれを余所《よそ》にして踊の場へ行くのが厭《いや》だつたのでした。私は楽屋でお膳のないのを悲みながら、煮魚のむしつたので夕飯を食べさせられました。この時も大勢の弟子の中でお師匠さんは私を一番大事にしてくれました。踊の済んだ時に、もうこれでいゝと思つた心持と、地方《ぢかた》の座を背にして、扇を膝に当てながら歌の起るのを待つて居た記憶はありますが、その間の気分などは皆忘れてしまひました。
お師匠さんはお酒が好きでしたが、そんなことが病の原因《もと》になつて、死んでしまはれたのではないでせうか。
屏風と障子
西洋好《せいやうずき》の私の父は西洋から来た石版画《せきばんゑ》で屏風が作らせてありました。私はその絵の中で一番端にはられた、青い服に赤いネクタイをした子供の泣いて居る絵がどんなに嫌ひだつたか知れません。これは阿呆《あはう》な子で、学校へ行くのが厭だと云つて居るのですと老婢《らうひ》はよく私に教へました。さう云はれます度に私
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