で生きた死骸になつて諦《あきら》めてしまひます。
私は問ひたい、女に對する公平な批判と云ふものが日本の何處にあるのですか。私は今の場合、男を批難することは七分、女を批難することは三分の割合でせねば公平を得られないと思つて居ますが、かう云ふ意見を誰に同意して頂くことが出來るでせうか。姑と云ふものは女でありながら男の横暴を其同性の若い人間に加へる者です。さうして今日では第一に教育者が其姑の味方です。女學校の倫理は、妻は良人と姑に對して獨立しながら共に生活に協力せよと云ふので無くて、唯だ良人と姑に沒我の柔順――盲從を以て奴隸的、物的、器械的に役立つことを教へて居るばかりです。女もまた人間である以上個人の獨立自存に必要な權利を何人に向つても遠慮なく正當に主張せよと云ふ、近代生活の太切な根本義を教へることを忘れて居ります。かやうな學校の倫理で教育せられた多數の女は、他日また今の姑達の多數が平氣で若い嫁に加へて居るやうな暴虐を一廉《ひとかど》の賢母振つて繰返すことになるでせう。
私はまた識者に問ひたい。例へば中根氏の舊夫人が姑に加へたやうなヒステリイ的な狂的な、刄傷を同じやうな動機や事情から反
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