人間として姑と嫁と、又は男と女との差が非常なのですから、言ひ換へればどちらも後者が前者に殆ど人と物との關係で權利を無視されて居るのですから、兩者の間に何か問題が起れば太抵の場合兩者を對等に批判してはなりません。後者は常に壓制され、凌辱され、常に卑下し、忍從して居るものであると云ふことを念頭に置いて、同じ過失と罪惡にしても、男を批難することは七分、女を批難することは三分と云ふ割合で對せねば公平を得られないでせう。後者には其れだけの斟酌をすべきいろいろの情状があるのです。其情状と云ふものは女自身の無智から、又は生理關係、心理關係に由るのもありますが、大部分は男子の横暴と、男子自身のために作った道徳習慣が勢力を張つて居る不完全な社會状態とから餘儀なくされて居るのです。女の無智と云ふのも女の先天性ではなくて社會の習慣が女を教育しなかつたからです。
 例へば姑が嫁の髻を掴んで打擲したり、燒火箸や刄物で傷害したり、毒を呑ませようと謀つたりする事實が昔から日本の家庭に存在して居ます。それは日本の道徳習慣では大した罪惡と認められて居ません。さう云ふ事實があつても姑根性として寛假されます。それが假にも姑
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