的の姑が甚だ稀《まれ》に世にあることを認めるが、それは勿論尊敬すべき姑である。しかしいわゆる姑根性を脱しない大多数の姑たちについて、私は一概に憎悪のみを以て対しようとは思わない。これは私が姑という者を持たない境遇にいて、姑に対する気兼苦労の実感を経験しないからでもあろうが、私は憎悪の外に気の毒なと思う感が附随している。なぜなら彼らの大多数の姑たちは一方には教えられざる婦人であり、一方には老後の索寞《さくばく》、月経閉鎖期前後の悲哀、その他種種の事情から精神の平衡を欠き、もしくはヒステリイ症に罹《かか》っている婦人だからである。
 数年前に私は老人教育の必要であることを述べた。日本の教育という意味が青年教育ばかりに偏しているので、青年の思想はどしどし前へ進んで行くのに、老人は一度若い時に教育されたきりであるからその思想は過去のままに乾干《ひから》びている。社会の要部が老人と青年とで成立つものである以上、老人と青年との意志が疏通《そつう》しなければ社会は順調に進歩しない訳である。年齢の差などがあって少しは疏通しにくい部分があるのは免れないにしても、青年と共に現代の思想に浸ることを怠《おこた》りさえしなければ、すべての老人が青年の思想を大部分理解することが出来て、同じ基調の上に呼応し協力して人生の音楽が合奏されるに到るであろう。しかるに日本の老人の多数は私のこの理想と全く背馳《はいち》している。殊に老婦人の階級はその若い時に教育らしい教育も受けていない人が多く、男子側の老人でさえ内外の新書に親《したし》むことは稀《まれ》なのであるから、それらの老婦人たちが現代について精神的に何物も教えられていないのは言うまでもない。それで過去の思想に停滞している老婦人は万事を過去の標準で是非し、若い嫁のする事が凡《すべ》て気に入らない所から、一一それに世話を焼きたくなる。世話や忠告の程度に留っていればよいが、親切が過ぎては干渉となり、加之《おまけ》に在来の姑と嫁とは殆ど専制時代の君臣の関係であることが正しいとせられているから、干渉が一転すれば強制となり威圧とならずには置かない。
 それに老婦人の中には早く良人に別れたり、また良人があっても愛情が亡くなっていたりして心寂しい生活を送っている人がある。そういう婦人は子供の愛だけがせめての慰安であり生活の力であったのに、子供に嫁が出来れば嫁は子
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