後に自己に返った若い妻が教育ある婦人だけにその悔恨が心を噛《か》んだことも異常であったに違いない。法廷において被告が誠心誠意|懺悔《ざんげ》の涙に咽《むせ》んだというのは同情されることである。
 その動機に情状の酌量すべき所があっても、その事実が法文に触れているのであるから犯罪人として処刑されるのはやむをえない。殊に在来の道徳や習慣をその不用な部分までも背景にしている日本の法律では、嫁が姑を刺したという表面の大それた事実を重く見るので情状酌量の余地がない。それでこの犯罪は八年の懲役に処せられ、執行猶予の沙汰もなかったが、宣告の際に物優しい判事は獄則を恪守《かくしゅ》して刑期の半《なかば》を過したなら仮出獄の恩典に浴することも出来るということを告げたということである。私はこの刑罰の裁量が妥当であるかどうかを知らない。とにかくこうして某工学士一家の傷《いた》ましい悲劇は一段落が附こうとしているのである。しかし私はこの事件を切掛《きっかけ》にして更にいろいろの感想が胸に浮ぶ。

 同じ悲劇の種は、姑と嫁のある日本の家庭の大多数に伏在している。姑が嫁を愛するというような事は昔の清少納言《せいしょうなごん》も珍しい物の中に引いている通りむしろ例外であって、「あなたは善い姑をお持ちになってお仕合せです」と嫁の友人から祝を述べるほどのことである。固《もと》より姑根性には種種《いろいろ》あって某工学士の母の実際はどうであるか知らないが、最も極端な例に引かれる残忍な姑さえ決して世間に珍しくはないのであるから、それ以外の、あるいは悪性、あるいは不良な程度の姑は無数に散在している。官吏や被傭人となって他郷に生活している若夫婦の中には父母と別居している者が多く、それらは直接に姑の干渉を受けないであろうが、しかし某工学士夫婦のように横浜と神戸とに別居していてすら前述のような惨事を引起したのであるから、如何に遠く離れて住んでいても聡明な愛情を欠いた姑に対する嫁の気兼《きがね》苦労は多少にかかわらず附帯しているのである。まして姑と一所に定住している大多数の嫁がそれらの姑の下にあるいは干渉され、あるいは苛《いじ》められ、あるいは意地悪く一分《いちぶ》だめしに精神的に虐殺されつつあるのは言うまでもない。
 私は自分の息子《むすこ》のように嫁を愛し、あるいは蔭に廻って嫁を弁護するほどの美質を持った理想
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