供に対する愛の競争者である。そして結婚以後の子供の心理が母に対して幾分|疎縁《そえん》になるのも、またそれについて母が孤独の寂しさと嫁に対する一種の嫉妬とを感じるのも自然の人情であろうと想われる。
また月経閉鎖期前後の婦人の心理というものがヒステリイ的にいろいろの症状を呈するのは顕著な事実であって、そういう症状に罹《かか》った老婦人は嫁のする事なら針ほどの事も憎くなったり、嫁が好意でした事も反対に僻《ひが》んで解釈したり、酒精《アルコール》中毒者が杯を放さないように、またしてはあくどく嫁苛《よめいび》りをして嫁の苦痛を楽まずにはいられないのである。そういう老婦人は子供を多く生まないようにという口実の下に、しばしば若夫婦と室を同じくして臥《ふ》し閨房《けいぼう》を監視する残忍をさえ敢てするということである。
こういう種種の理由の下に悪性になり、不良になっている多数の姑根性というものを私は一概に憎むことが出来ない。たとい姑根性は憎んでも、こういう後天的理由で畸人《きじん》化され病人化された姑その人はむしろ気の毒に感ぜられる。
読書欲の全く欠けている多数の老婦人たちが今更他の勧めに従って無為の時間を多少でも新書の研究に善用しようとは考えられない。しかし老婦人たちを在来の姑根性から脱して明るく快濶な性情の人と改造するには現代の思想を何かの方法で理解させることが必要である。若い男女を教育する設備はいくらもあるが、専ら老婦人を教育する会合はまだ何処《どこ》にも起っていない。老婦人の多く集る諸種の会合はあっても、それは凡て物見遊山《ものみゆさん》の変形で、老婦人同志の奢侈《しゃし》と自慢の競進場たるに過ぎない。多数の老婦人が寺院や教会へ集ることがあっても、既成宗教は最早彼らに現代を教える場所ではない。僧侶や牧師は非現代的な迷信の鼓吹者であり、そして最も彼ら老婦人に受《うけ》のよい僧侶や牧師は一種の幇間《ほうかん》に堕落している。そしてそれらの老婦人の多数は寺院を嫁の悪口の交換所とし、嫁に食べさせる物を吝《おし》んで蓄《た》めた金を寄附して、早晩滅亡する運命を持っている両本願寺のような迷信の府を愚かにも支持しようとするに過ぎない。
私は何とかして老婦人の思想を現代的に近づける方法を識者に工夫して欲しい。もし現代の思想に対し少しずつでも理解が出来たら、多数の老婦人は嫁苛りに
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