て行くという人もないのであるから、ただ硯《すずり》に向かって思いのわく時には手習いに書くだけを能事として、よく歌などを書いていた。
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なきものに身をも人をも思ひつつ捨ててし世をぞさらに捨てつる
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もうこれで終わったのである。
こんな文字を書いてみずから身にしむように見ていた。
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限りぞと思ひなりにし世の中をかへすがへすもそむきぬるかな
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こうした考えばかりが歌にも短文にもなって、筆を動かしている時に中将から手紙が来た。一家は昨夜《ゆうべ》のことがあって騒然としていて、来た使いにもそのことを言って帰した。
中将は落胆した。宗教に傾いた心から自分の恋の言葉に少しの答えを与えることもし始めては煩いになると避けていたものらしい、それにしても惜しいことである。美しいように少し見た髪を、確かに見せてくれぬかと女房に先夜も頼むと、よい時にと約束をしてくれたのであったがと残念で、二度目の使いを出した。
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御|挨拶《あいさつ》のいたしようもないことを承りました。
[#ここか
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