胸がいつぱいになつた事などの思ひ出が氷の雫《しづく》と同じやうに心からしみ出すのを覚えた。其《その》事を云つて巴里《パリイ》でかこつた相手の事も思ひ出される。車屋の角を曲《まが》るともう美阪家《みさかけ》の勝手の門が見えた。
『ををばあさあん。』
と大きい声で云つて居るのが塀|越《ご》しに聞《きこ》えた。同じ節で同じ事を云ふ低い声も聞《きこ》える。大きいのが女の子の声で低いのが男の子の声である。この刹那《せつな》に鏡子はお照から来た何時《いつか》の手紙にも榮が可愛くなつたとばかり書いてあつて、[#「、」は底本では「。」]ついぞ晨の事の無かつたのと、自身が抱かうとすると反《そ》りかへつて、
『いやだあい。』
と幾度も繰り返した榮子の気の強さを思つて、其《その》子が叔母の愛の前に幅を拡《ひろ》げて晨は陰の者になつて居るのではないかと胸が轟《とゞろ》いた。早く晨を抱いて遣らねばならないと思はず鏡子の身体《からだ》は前へ出た。
『おかへりい。』
門の戸は重い音を立てゝ開《あ》けられた。瑞木を車夫が下へ降《おろ》すのと一緒に鏡子は転《ころ》ぶやうにして門をくゞつた。
玄関の板間《いたのま
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