い熱情を持っている者であると共に、国語に対する理解についても相応の自信を持っている一人です。私の慎重に考察する所では、国語は国民の意志を表示し合う手段です。既に手段である以上、国民の言語としては、端的に国民の意志を表示することが出来て、それが自由にかつ一般的に使用されるものでなくてはなりません。手段のために主要な意志の表示が不自由になり、迂遠《うえん》になり、あるいは晦渋《かいじゅう》になるようでは、決して最上の手段といわれないのです。また出来るだけその手段は誰にも容易に使用されるものであることを必要とし、手段を学ぶために特に多くの心力と時間とを消費せねばならぬというようでは面白くありません。
 国語に対する私のこの見解が承認して頂けるならば、普通教育における国語は専ら口語体のみを課すべきであると思います。口語体は現在の国民の思想感情を最も明確に表示して、命も、血も、熱もこれに打込んだ第一次的の言語であるのですから、すべての子女は早くから家庭でこれに習熟しています。学校においては、それを書きあらわす文字と、少しの口語の規則とを教えさえすれば、子女をそれを鳥の自ら囀《さえず》るように、楽
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