た紫式部の筆には及ばぬがということで、注釈者たちが紫の上のことにしているのは曲解《きょっかい》なのである。子孫のない紫の上と別の家のこととを比較するのはおかしいではないか。
 私はその研究を以前していたとき、前篇の執筆と後篇の書かれた間の差に二十六年という数を得た。王朝はすでに地方官が武力を用いて威《い》を拡《ひろ》めはじめた時代になっていた。陸奥守《むつのかみ》から常陸介《ひたちのすけ》になった男の富などがそれである。
 後冷泉《ごれいぜい》天皇の御勅筆《ごちょくひつ》の額《がく》を今も平等院《びょうどういん》の隣の寺で拝見することができるが、その頃の男の漢文の日記などに東宮時代の同帝がしばしば宇治の頼通《よりみち》の山荘へ行啓《ぎょうけい》になったことが書かれてある。後冷泉帝の御乳母《おんめのと》が大弐の三位で、お供をして行って宇治をよく知るようになったものらしい。
 歌は前篇の作者にくらべて劣るが凡手《ぼんしゅ》でない、その時代に歌人として頭角《とうかく》を現わしていた人の筆になった傑作小説として、私は大弐の三位の家の集をずいぶん捜し求めたが現存していない。伊勢の皇学館《こうがく
前へ 次へ
全7ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
与謝野 晶子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング