。何しろ評判の渾名《あだな》通り、親指|位《くらゐ》しかない男だから、蜘蛛と戦ふのも容易ではない。蜘蛛は足を拡げた儘、まつしぐらにトムへ殺到する。トムはその度に身をかはせては、咄嗟《とつさ》に蜘蛛の腹へ一撃を加へる。……
 それが十分程続いた後《のち》、彼等は息も絶え絶えに、どちらも其処へゐすくまつてしまつた。
 羊歯《しだ》の生えた岩の下には、深い谷底が開《ひら》いてゐる。一匹の毒竜はその谷底に、白馬《しろうま》へ跨《またが》つた聖ヂヨオヂと、もう半日も戦つてゐる。何しろ相手の騎士の上には、天主《てんしゆ》の冥護《みやうご》が加《くはは》つてゐるから、毒竜も容易に勝つ事は出来ない。毒竜は火を吐きかけ、吐きかけ、何度も馬の鞍《くら》へ跳り上る。が、何時《いつ》でも竜の爪は、騎士の鎧《よろひ》に辷《すべ》つてしまつた。聖ヂヨオヂは槍を揮《ふる》ひながら、縦横《じゆうわう》に馬を跳らせてゐる。軽快な蹄《ひづめ》の音、花々しい槍の閃《ひらめ》き、それから毒竜の炎《ほのほ》の中《うち》に、※[#「參+毛」、第3水準1−86−45]々《さん/\》と靡《なび》いた兜《かぶと》の乱れ毛、……
 トムは遠い崖の下に、勇ましい聖ヂヨオヂの姿を見ると、苦々《にが/\》しさうに舌打ちをした。
「畜生《ちくしやう》。あいつは遊んでゐやがる。」

     Don Juan aux enfers

 ドン・ジユアンは舟の中に、薄暗い河を眺めてゐる。時々古い舟《ふな》べりを打つては、蒼白い火花を迸《ほとばし》らせる、泊夫藍色《サフランいろ》の浪の高さ。その舟の艫《とも》には厳《いはほ》のやうに、黙々と今日《けふ》も櫂《かい》を取つた、おお、お前! 寂しいシヤアロン!
 或|霊《れい》は遠い浪の間《あひだ》に、高々と両手をさし上げながら、舟中《しうちう》の客を呪《のろ》つてゐる。又或霊は口惜《くや》しさうに、舟べりを煙らせた水沫《しぶき》の中から、ぢつと彼の顔を見上げてゐる。見よ! あちらの舳《へさき》に縋《すが》つた、或霊の腕の逞《たく》ましさを! と思ふとこちらの艫《とも》にも、シヤアロンの櫂《かい》に払はれたのか、真逆様《まつさかさま》に沈みかかつた、或霊の二つの足のうら!

 妻を盗まれた夫《をつと》の霊、娘を掠《かす》められた父親の霊、恋人を奪はれた若者の霊。――この河に浮き沈む無数の
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング