霊は、一人も残らず男だつた。おお、わが詩人ボオドレエル! 君はこの地獄の河に、どの位|夥《おびただ》しい男の霊が、泣き叫んでゐたかを知らなかつた!
しかしドン・ジユアンは冷然と、舟中《しうちう》に剣《つるぎ》をついた儘、※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にほひ》の好《い》い葉巻へ火をつけた。さうして眉一つ動かさずに、大勢《おほぜい》の霊を眺めやつた。何故《なぜ》彼はこの時でも、流俗のやうに恐れなかつたか? それは一人《ひとり》も霊の中に彼程の美男《びなん》がゐなかつたからである!
幽霊
或|古本屋《ふるほんや》の店頭。夜《よる》。古本屋の主人は居睡りをしてゐる。かすかにピアノの音がするのは、近所にカフエエのある証拠らしい。
第一の幽霊 (さもがつかりしたやうに、朦朧《もうろう》と店さきへ姿を現す。)此処《ここ》にも古本屋が一軒ある。存外《ぞんぐわい》かう云ふ所には、品物が揃つてゐるかも知れない。(熱心に棚の書物を検べる。)近松《ちかまつ》全集、万葉集略解《まんえふしふりやくげ》、たけくらべ、アンナ・カレニナ、芭蕉《ばせう》句集、――ない。ない。やつぱりない。ないと云ふ筈はないのだが……
第二の幽霊 (これもやはり大儀《たいぎ》さうに、ふはりと店へはひつて来る。)おや、今晩は。
第一の幽霊 今晩は。どうだね、その後《ご》君の戯曲は?
第二の幽霊 駄目《だめ》、駄目。何処《どこ》の芝居でも御倉《おくら》にしてゐる。やつてゐるのは不相変《あひかはらず》、黴《かび》の生えた旧劇ばかりさ。君の小説はどうなつたい?
第一の幽霊 これも御同様絶版と来てゐる。もう僕の小説なぞは、誰も読むものがなくなつたのだね。
第二の幽霊 (冷笑するやうに。)君の時代も過ぎ去つたかね。
第一の幽霊 (感傷的に。)我々の時代が過ぎ去つたのだよ。尤《もつと》も僕等が往生《わうじやう》したのは、もう五十年も前だからなあ。
第三の幽霊 (これは燐火《りんくわ》を飛ばせながら、愉快さうに漂《ただよ》つて来る。)今晩は。何《なん》だかいやにふさいでゐるぢやないか? 幽霊が悄然《せうぜん》としてゐるなんぞは、当節がらあんまりはやらないぜ。僕は批評家たる職分上、諸君の悪趣味に反対だね。
第一の幽霊 僕等がふさいでゐるのぢやない。君が幽霊にしては陽気過ぎるのだよ。
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