娘は、勿論これを、男の唄の声だと思った。寝息を窺《うかが》うと、母親はよく寝入っているらしい。そこで、そっと床《とこ》をぬけ出して、入口の戸を細目にあけながら、外の容子《ようす》を覗いて見た。が、外はうすい月と浪の音ばかりで、男の姿はどこにもない。娘は暫くあたりを見廻していたが、突然つめたい春の夜風にでも吹かれたように、頬《ほお》をおさえながら、立ちすくんでしまった。戸の前の砂の上に、点々として貉の足跡のついているのが、その時|朧《おぼろ》げに見えたからであろう。……
 この話は、たちまち幾百里の山河《さんが》を隔てた、京畿《けいき》の地まで喧伝《けんでん》された。それから山城《やましろ》の貉が化《ば》ける。近江《おうみ》の貉が化ける。ついには同属の狸《たぬき》までも化け始めて、徳川時代になると、佐渡の団三郎と云う、貉とも狸ともつかない先生が出て、海の向うにいる越前の国の人をさえ、化かすような事になった。
 化かすようになったのではない。化かすと信ぜられるようになったのである――こう諸君は、云うかも知れない。しかし、化かすと云う事と、化かすと信ぜられると云う事との間には、果してどれほ
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