。……
かう云ふ行きがかりで、森の仲間と井上の仲間との間には、時折口論が持上がる。それも、唯、口論位ですんでゐた内は、差支へない。が、とうとう、しまひには、それが素《もと》で、思ひもよらない刃傷沙汰《にんじやうざた》さへ、始まるやうな事になつた。
それと云ふのは、或日、森が、又大事に飼はうと思つて、人から貰つた虱を茶碗へ入れてとつて置くと、油断を見すまして井上が、何時の間にかそれを食つてしまつた。森が来て見ると、もう一匹もない。そこで、この 〔Pre'curseur〕 の説が、そのまま何人にも容れられると云ふ事は滅多にない。船中にも、森の虱論にが腹を立てた。
「何故、人の虱を食はしつた。」
張肘《はりひぢ》をしながら、眼の色を変へて、かうつめよると、井上は、
「自体、虱を飼ふと云ふのが、たはけ[#「たはけ」に傍点]ぢやての。」と、空嘯《そらうそぶ》いて、まるで取合ふけしきがない。
「食ふ方がたはけ[#「たはけ」に傍点]ぢや。」
森は、躍起となつて、板の間をたたきながら、
「これ、この船中に、一人として虱の恩を蒙らぬ者がござるか。その虱を取つて食ふなどとは、恩を仇でかへすのも同前
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