sどうぜん》ぢや。」
「身共は、虱の恩を着た覚えなどは、毛頭ござらぬ。」
「いや、たとひ恩を着ぬにもせよ、妄《みだり》に生類《しやうるゐ》の命を断つなどとは、言語道断《ごんごだうだん》でござらう。」
二言三言云ひつのつたと思ふと、森がいきなり眼の色を変へて、蝦鞘巻《えびさやまき》の柄《つか》に手をかけた。勿論、井上も負けてはゐない。すぐに、朱鞘《しゆざや》の長物《ながもの》をひきよせて、立上る。――裸で虱をとつてゐた連中が、慌てて両人を取押へなかつたなら、或はどちらか一方の命にも関る所であつた。
この騒ぎを実見した人の話によると、二人は、一同に抱きすくめられながら、それでもまだ口角に泡を飛ばせて、「虱。虱。」と叫んでゐたさうである。
四
かう云ふ具合に、船中の侍たちが、虱の為に刃傷沙汰を引起してゐる間でも、五百石積の金毘羅船だけは、まるでそんな事には頓着しないやうに、紅白の幟を寒風にひるがへしながら、遙々として長州征伐の途に上るべく、雪もよひの空の下を、西へ西へと走つて行つた。
[#地から2字上げ](大正五年三月)
底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之
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