しはもう何も入《い》らぬ。生きようとも死なうとも一つ事ぢや。……」
        *      *      *
 丁度これと同じ時刻、男は遠い常陸《ひたち》の国の屋形に、新しい妻と酒を斟《く》んでゐた。妻は父の目がねにかなつた、この国の守《かみ》の娘だつた。
「あの音は何ぢや?」
 男はふと驚いたやうに、静かな月明りの軒を見上げた。その時なぜか男の胸には、はつきり姫君の姿が浮んでゐた。
「栗の実が落ちたのでございませう。」
 常陸の妻はさう答へながら、ふつつかに銚子の酒をさした。

       四

 男が京へ帰つたのは、丁度九年目の晩秋だつた。男と常陸の妻の族《うから》と、――彼等は京へはひる途中、日がらの悪いのを避ける為に、三四日|粟津《あはづ》に滞在した。それから京へはひる時も、昼の人目に立たないやうに、わざと日の暮を選ぶ事にした。男は鄙《ひな》にゐる間も、二三度京の妻のもとへ、懇《ねんご》ろな消息をことづけてやつた。が、使が帰らなかつたり、幸ひ帰つて来たと思へば、姫君の屋形がわからなかつたり、一度も返事は手に入らなかつた。それだけに京へはひつたとなると、恋しさも亦|一層《
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