られなかつた。が、又或時は理由もないのに、腹ばかり立ててゐる事があつた。
暮しのつらいのは勿論だつた。棚の厨子《づし》はとうの昔、米や青菜に変つてゐた。今では姫君の袿《うちぎ》や袴《はかま》も身についてゐる外は残らなかつた。乳母は焚《た》き物に事を欠けば、立ち腐れになつた寝殿《しんでん》へ、板を剥《は》ぎに出かける位だつた。しかし姫君は昔の通り、琴や歌に気を晴らしながら、ぢつと男を待ち続けてゐた。
するとその年の秋の月夜、乳母は姫君の前へ出ると、考へ考へこんな事を云つた。
「殿はもう御帰りにはなりますまい。あなた様も殿の事は、お忘れになつては如何《いかが》でございませう。就てはこの頃或|典薬之助《てんやくのすけ》が、あなた様にお会はせ申せと、責め立てて居るのでございますが、……」
姫君はその話を聞きながら、六年|以前《まへ》の事を思ひ出した。六年以前には、いくら泣いても、泣き足りない程悲しかつた。が、今は体も心も余りにそれには疲れてゐた。「唯静かに老い朽ちたい。」……その外は何も考へなかつた。姫君は話を聞き終ると、白い月を眺めたなり、懶《ものうげ》げにやつれた顔を振つた。
「わた
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