ひとしほ》だつた。男は妻の父の屋形へ無事に妻を送りこむが早いか、旅仕度も解かずに六の宮へ行つた。
 六の宮へ行つて見ると、昔あつた四足《よつあし》の門も、檜皮葺《ひはだぶ》きの寝殿や対《たい》も、悉《ことごとく》今はなくなつてゐた。その中に唯残つてゐるのは、崩れ残りの築土《ついぢ》だけだつた。男は草の中に佇《たたず》んだ儘、茫然と庭の跡を眺めまはした。其処には半ば埋もれた池に、水葱《なぎ》が少し作つてあつた。水葱はかすかな新月の光に、ひつそりと葉を簇《むらが》らせてゐた。
 男は政所《まんどころ》と覚《おぼ》しいあたりに、傾いた板屋のあるのを見つけた。板屋の中には近寄つて見ると、誰か人影もあるらしかつた。男は闇を透《す》かしながら、そつとその人影に声をかけた。すると月明りによろぼひ出たのは、何処か見覚えのある老尼だつた。
 尼は男に名のられると、何も云はずに泣き続けた。その後やつと途切れ途切れに、姫君の身の上を話し出した。
「御見忘れでもございませうが、手前は御内《みうち》に仕へて居つた、はした女《め》の母でございます。殿がお下りになつてからも、娘はまだ五年ばかり、御奉公致して居りまし
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