と、乳母は勿論男さへも、一層慌てずにはゐられなかつた。
乳母はまるで気の狂つたやうに、乞食法師のもとへ走り寄つた。さうして、臨終の姫君の為に、何なりとも経を読んでくれと云つた。法師は乳母の望み通り、姫君の枕もとへ座を占めた。が、経文を読誦《どくじゆ》する代りに、姫君へかう言葉をかけた。
「往生は人手に出来るものではござらぬ。唯御自身怠らずに、阿弥陀仏の御名《みな》をお唱へなされ。」
姫君は男に抱かれた儘、細ぼそと仏名《ぶつみやう》を唱へ出した。と思ふと恐しさうに、ぢつと門の天井を見つめた。
「あれ、あそこに火の燃える車が。……」
「そのやうな物にお恐れなさるな。御仏《みほとけ》さへ念ずればよろしうござる。」
法師はやや声を励ました。すると姫君は少時《しばらく》の後、又夢うつつのやうに呟《つぶや》き出した。
「金色《こんじき》の蓮華《れんげ》が見えまする。天蓋《てんがい》のやうに大きい蓮華が。……」
法師は何か云はうとしたが、今度はそれよりもさきに、姫君が切れ切れに口を開いた。
「蓮華はもう見えませぬ。跡には唯暗い中に風ばかり吹いて居りまする。」
「一心に仏名を御唱へなされ。なぜ
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