シは失恋するような事はないから。その代り――」
辰子はまた静に眼を挙げて俊助の眉の間を見た。
「その代り?」
「失恋させるかも知れません。」
俊助は冗談のように云った言葉が、案外|真面目《まじめ》な調子を帯びていたのに気がついた。と同時に真面目なだけ、それだけ厭味なのを恥しく思った。
「そんな事を。」
辰子はすぐに眼を伏せたが、やがて俊助の方へ後《うしろ》を向けると、そっとピアノの蓋を開けて、まるで二人をとりまいた、薔薇《ばら》の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]いのする沈黙を追い払おうとするように、二つ三つ鍵盤《けんばん》を打った。それは打つ指に力がないのか、いずれも音とは思われないほど、かすかな音を響かせたのに過ぎなかった。が、俊助はその音を聞くと共に、日頃彼の軽蔑《けいべつ》する感傷主義《センティメンタリズム》が、彼自身をもすんでの事に捕えようとしていたのを意識した。この意識は勿論彼にとって、危険の意識には相違なかった。けれども彼の心には、その危険を免《まぬか》れたと云う、満足らしいものはさらになかった。
しばらくして初子《はつこ》が新田《にった》と一しょに、
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