齣w重苦しく、甘い※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にお》いを放っていた。最後にあの令嬢の弾《ひ》くオルガンが、まるでこの癲狂院《てんきょういん》の建物のつく吐息《といき》のように、時々廊下の向うから聞えて来た。
「あの御嬢さんは、まだ弾いていらっしゃるのね。」
 辰子はピアノの前に立ったまま、うっとりと眼を遠い所へ漂わせた。俊助は煙草へ火をつけながら、ピアノと向い合った長椅子《ながいす》へ、ぐったりと疲れた腰を下して、
「失恋したくらいで、気が違うものかな。」と、独り語のように呟《つぶや》いた。と、辰子は静に眼を俊助の顔へ移して、
「違わないと御思いになって?」
「さあ――僕は違いそうもありませんね。それよりあなたはどうです。」
「私《わたし》? 私はどうするでしょう。」
 辰子は誰に尋ねるともなくこう云ったが、急に青白い頬に血の色がさすと、眼を白足袋《しろたび》の上に落して、
「わからないわ。」と小さな声を出した。
 俊助は金口《きんぐち》を啣《くわ》えたまま、しばらくはただ黙然《もくねん》と辰子の姿を眺めていたが、やがてわざと軽い調子で、
「御安心なさい。あんたなん
前へ 次へ
全105ページ中79ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング