q《たつこ》は細い声で、囁《ささや》くようにこう云った。が、初子《はつこ》は同情と云うよりも、むしろ好奇心に満ちた眼を輝かせて、じっと令嬢の横顔を見つめていた。
「オルガンだけは忘れないと見えるね。」
「オルガンばかりじゃない。この患者は画も描く。裁縫もする。字なんぞは殊に巧《たくみ》だ。」
 新田《にった》は俊助にこう云ってから、三人を戸口に残して置いて、静にオルガンの側へ歩み寄った。が、令嬢はまるでそれに気がつかないかのごとく、依然として鍵盤《けんばん》に指を走らせ続けていた。
「今日《こんにち》は。御気分はいかがです?」
 新田は二三度繰返して問いかけたが、令嬢はやはり窓の外の白椿と向い合ったまま、振返る気色《けしき》さえ見せなかった。のみならず、新田が軽く肩へ手をかけると、恐ろしい勢いでふり払いながら、それでも指だけは間違いなく、この病室の空気にふさわしい、陰鬱な曲を弾《ひ》きやめなかった。
 三人は一種の無気味《ぶきみ》さを感じて無言のまま、部屋を外へ退《しりぞ》いた。
「今日は御機嫌《ごきげん》が悪いようです。あれでも気が向くと、思いのほか愛嬌《あいきょう》のある女なんです
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