た。が、そのためにわざわざ席を離れるのは、面倒でもあるし、莫迦莫迦《ばかばか》しくもあった。そこで万年筆へインクを吸わせながら、いささか腰を擡《もた》げ兼ねていると、哲学概論を担当している、有名なL教授が、黒い鞄を小脇に抱えて、のそのそ外からはいって来てしまった。
 L教授は哲学者と云うよりも、むしろ実業家らしい風采を備えていた。それがその日のように、流行の茶の背広を一着して、金の指環《ゆびわ》をはめた手を動かしながら、鞄の中の草稿を取り出したりなどしていると、殊に講壇よりは事務机の後《うしろ》に立たせて見たいような心もちがした。が、講義は教授の風采とは没交渉に、その面倒なカント哲学の範疇《カテゴリイ》の議論から始められた。俊助は専門の英文学の講義よりも、反《かえ》って哲学や美学の講義に忠実な学生だったから、ざっと二時間ばかりの間、熱心に万年筆を動かして、手際《てぎわ》よくノオトを取って行った。それでも合《あ》い間《ま》毎に顔を挙げて、これは煩杖をついたまま、滅多にペンを使わないらしい大井の後姿を眺めると、時々昨夜以来の不思議な気分が、カントと彼との間へ靄《もや》のように流れこんで来
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