@二十一

 その日|俊助《しゅんすけ》は、いつよりもやや出席が遅れたので、講壇をめぐった聴講席の中でも、一番|後《うしろ》の机に坐らなければならなかった。所がそこへ坐って見ると、なぞえに向うへ低くなった二三列前の机に、見慣れた黒木綿の紋附が、澄まして頬杖をついていた。俊助はおやと思った。それから昨夜《さくや》中央停車場で見かけたのは、大井篤夫《おおいあつお》じゃなかったのかしらと思った。が、すぐにまた、いや、やはり大井に違いなかったと思い返した。そうしたら、彼が手巾《ハンケチ》を振っているのを見た時よりも、一層狐につままれたような心もちになった。
 その内に大井は何かの拍子《ひょうし》に、ぐるりとこちらへ振返った。顔を見ると、例のごとく傲岸不遜《ごうがんふそん》な表情があった。俊助は当然なるべきこの表情を妙にもの珍しく感じながら、「やあ」と云う挨拶《あいさつ》を眼で送った。と、大井も黒木綿《くろもめん》の紋附の肩越に、顎《あご》でちょいと会釈《えしゃく》をしたが、それなりまた向うを向いて、隣にいた制服の学生と、何か話をし始めたらしかった。俊助は急に昨夜の一件を確かめたい気が強くなって
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