lを見かけたが、まさか先生じゃあるまいな。」
「大井だって、停車場へ来ないとは限らないさ。」
「いや、何でも女づれらしかったから。」
 そこへスウプが来た。二人はそれぎり大井を閑却《かんきゃく》して、嵐山《あらしやま》の桜はまだ早かろうの、瀬戸内《せとうち》の汽船は面白かろうのと、春めいた旅の話へ乗り換えてしまった。するとその内に、野村が皿の変るのを待ちながら、急に思い出したと云う調子で、
「今|初子《はつこ》さんの所へ例の件を電話でそう云って置いた。」
「じゃ今日は誰も送りに来ないか。」
「来るものか。何故《なぜ》?」
 何故と尋《き》かれると、俊助も返事に窮するよりほかはなかった。
「栗原へは今朝《けさ》手紙を出すまで、国へ帰るとも何とも云っちゃなかったんだから――その手紙も電話で聞くと、もう少しさっき届いたばかりだそうだ。」
 野村はまるで送りに来ない初子のために、弁解の労を執《と》るような口調だった。
「そうか。道理で今日|辰子《たつこ》さんに遇《あ》ったが何ともそう云う話は聞かなかった。」
「辰子さんに遇った? いつ?」
「午《ひる》すぎに電車の中で。」
 俊助はこう答えなが
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