「。」
野村は制服の隠しから時計を出して、壁の上のと見比べていたが、
「じゃ君は向うで待っていてくれ給え。僕は先へ切符を買って来るから。」
俊助は独りで待合室の側の食堂へ行った。食堂はほとんど満員だった。それでも彼が入口に立って、逡巡《しゅんじゅん》の視線を漂わせていると、気の利《き》いた給仕が一人、すぐに手近の卓子《テエブル》に空席があるのを教えてくれた。が、その卓子《テエブル》には、すでに実業家らしい夫婦づれが、向い合ってフオクを動かしていた。彼は西洋風に遠慮したいと思ったが、ほかに腰を下《おろ》す所がないので、やむを得ずそこへ連《つらな》らせて貰う事にした。もっとも相手の夫婦づれは、格別迷惑らしい容子《ようす》もなく、一輪《いちりん》挿《ざ》しの桜を隔てながら、大阪弁で頻《しきり》に饒舌《しゃべ》っていた。
給仕が註文を聞いて行くと、間もなく野村が夕刊を二三枚つかんで、忙しそうにはいって来た。彼は俊助に声をかけられて、やっと相手の居場所に気がつくと、これは隣席の夫婦づれにも頓着なく、無造作《むぞうさ》に椅子をひき寄せて、
「今、切符を買っていたら、大井《おおい》君によく似た
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