ゥ、略《ほぼ》想像出来るような心もちがした。
「まず当分はシュライエルマッヘルどころの騒ぎじゃなさそうだ。」
「シュライエルマッヘル?」
「僕の卒業論文さ。」
 野村は気のなさそうな声を出すと、ぐったり五分刈の頭を下げて、自分の手足を眺めていたが、やがて元気を恢復したらしく、胸の金釦《きんボタン》をかけ直して、
「もうそろそろ出かけなくっちゃ。――じゃ癲狂院《てんきょういん》行きの一件は、何分よろしく取計らってくれ給え。」

        十九

 野村《のむら》が止めるのも聞かず、俊助《しゅんすけ》は鳥打帽にインバネスをひっかけて、彼と一しょに森川町の下宿を出た。幸《さいわい》とうに風が落ちて、往来には春寒い日の暮が、うす明《あかる》くアスファルトの上を流れていた。
 二人は電車で中央停車場へ行った。野村の下げていた鞄《かばん》を赤帽に渡して、もう電燈のともっている二等待合室へ行って見ると、壁の上の時計の針が、まだ発車の時刻には大分遠い所を指していた。俊助は立ったまま、ちょいと顎《あご》をその針の方へしゃくって見せた。
「どうだ、晩飯を食って行っては。」
「そうさな。それも悪くはな
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