tんで、ほとんど聞えないような返事をした。
二人はまた口を噤《つぐ》んで、電車の音とも風の音ともつかない町の音に耳を傾けた。が、俊助はこの二度目の沈黙を、前のように息苦しくは感じなかった。むしろ彼はその沈黙の中に、ある安らかな幸福の存在さえも明かに意識していたのだった。
十六
俊助《しゅんすけ》の下宿は本郷森川町でも、比較的閑静な一区劃にあった。それも京橋辺《きょうばしへん》の酒屋の隠居所を、ある伝手《つて》から二階だけ貸して貰ったので、畳《たたみ》建具《たてぐ》も世間並の下宿に比べると、遥《はるか》に小綺麗《こぎれい》に出来上っていた。彼はその部屋へ大きな西洋机《デスク》や安楽椅子の類を持ちこんで、見た眼には多少狭苦しいが、とにかく居心《いごころ》は悪くない程度の西洋風な書斎を拵《こしら》え上げた。が、書斎を飾るべき色彩と云っては、ただ書棚を埋《うず》めている洋書の行列があるばかりで、壁に懸っている額の中にも、大抵《たいてい》はありふれた西洋名画の写真版がはいっているのに過ぎなかった。これに常々不服だった彼は、その代りによく草花の鉢を買って来ては、部屋の中央に
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