l行儀《たにんぎょうぎ》が、氷のように溶けて来るのを感じた。と、広告屋の真紅《しんく》の旗が、喇叭《らっぱ》や太鼓《たいこ》の音を風に飛ばせながら、瞬《またた》く間《ま》電車の窓を塞《ふさ》いだ。辰子はわずかに肩を落して、そっと窓の外をふり返った。その時彼女の小さな耳朶《みみたぶ》が、斜《ななめ》にさして来る日の光を受けて、仄《ほの》かに赤く透《す》いて見えた。俊助はそれを美しいと思った。
「先達《せんだって》は、あれからすぐに御帰りになって。」
 辰子は俊助の顔へ瞳を返すと、人懐《ひとなつか》しい声でこう云った。
「ええ、一時間ばかりいて帰りました。」
「御宅はやはり本郷《ほんごう》?」
「そうです。森川町《もりかわちょう》。」
 俊助は制服の隠しをさぐって、名刺を辰子の手へ渡した。渡す時向うの手を見ると、青玉《サファイア》を入れた金の指環《ゆびわ》が、細っそりとその小指を繞《めぐ》っていた。俊助はそれもまた美しいと思った。
「大学の正門前の横町《よこちょう》です。その内に遊びにいらっしゃい。」
「難有《ありがと》う。いずれ初子《はつこ》さんとでも。」
 辰子は名刺を帯の間へ挟《はさ
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