フ上にひろげた婦人雑誌へ、つつましい眼を落しているらしかった。が、その内にふと眼を挙げて、近くの吊皮《つりかわ》にぶら下っている彼の姿を眺めると、たちまち片靨《かたえくぼ》を頬に浮べて、坐ったまま、叮嚀に黙礼の頭を下げた。俊助は会釈《えしゃく》を返すより先に、こみ合った乗客を押し分けて、辰子の前の吊皮へ手をかけながら、
「先夜は――」と、平凡に挨拶《あいさつ》した。
「私《わたし》こそ――」
 それぎり二人は口を噤《つぐ》んだ。電車の窓から外を見ると、時々風がなぐれる度に、往来が一面に灰色になる。と思うとまた、銀座通りの町並が、その灰色の中から浮き上って、崩《くず》れるように後《うしろ》へ流れて行く。俊助はそう云う背景の前に、端然と坐っている辰子の姿を、しばらくの間見下していたが、やがてその沈黙がそろそろ苦痛になり出したので、今度はなる可く気軽な調子で、
「今日《きょう》は?――御帰りですか。」と、出直して見た。
「ちょいと兄の所まで――国許《くにもと》の兄が出て参りましたから。」
「学校は? 御休みですか。」
「まだ始りませんの。来月の五日からですって。」
 俊助は次第に二人の間の他
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