t深く口を噤《つぐ》んで、卓子《テエブル》の上の紅茶茶碗へじっと眼を据えていたが、大井がこう云うと同時に、突然椅子から立ち上って、呆気《あっけ》に取られている連中を後《あと》に、さっさと部屋を出て行ってしまった。一座は互に顔を見合せたまま、しばらくの間は気まずい沈黙を守っていなければならなかった。が、やがて俊助は空嘯《そらうそぶ》いている大井の方へ、ちょいと顎《あご》で相図《あいず》をすると、微笑を含んだ静な声で、
「僕は御先へ御免《ごめん》を蒙るから。――」
 これが当夜、彼の口を洩れた、最初のそうしてまた最後の言葉だったのである。

        十五

 するとその後《ご》また一週間と経たない内に、俊助《しゅんすけ》は上野行の電車の中で、偶然|辰子《たつこ》と顔を合せた。
 それは春先の東京に珍しくない、埃風《ほこりかぜ》の吹く午後だった。俊助は大学から銀座の八咫屋《やたや》へ額縁の註文に廻った帰りで、尾張町《おわりちょう》の角から電車へ乗ると、ぎっしり両側の席を埋めた乗客の中に、辰子の寂しい顔が見えた。彼が電車の入口に立った時、彼女はやはり黒い絹の肩懸《ショオル》をかけて、膝
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