たいと云う欲望もあった。で同時にまたそうしてはならないと云う気も働いていた。そこで彼は少くとも現在以上の動揺を心に齎《もたら》さない方便として、成る可く眼を演壇から離さないような工夫《くふう》をした。
金屏風《きんびょうぶ》を立て廻した演壇へは、まずフロックを着た中年の紳士が現れて、額《ひたい》に垂れかかる髪をかき上げながら、撫でるように柔《やさ》しくシュウマンを唱《うた》った。それは Ich Kann's nicht fassen, nicht glauben で始まるシャミッソオの歌《リイド》だった。俊助はその舌たるい唄いぶりの中から、何か恐るべく不健全な香気が、発散して来るのを感ぜずにはいられなかった。そうしてこの香気が彼の騒ぐ心を一層|苛立《いらだ》てて行くような気がしてならなかった。だからようやく独唱《ソロ》が終って、けたたましい拍手《はくしゅ》の音が起った時、彼はわずかにほっとした眼を挙げて、まるで救いを求めるように隣席の大井《おおい》を振返った。すると大井はプログラムを丸く巻いて、それを望遠鏡のように眼へ当てながら、演壇の上に頭を下げているシュウマンの独唱家《ソロイスト
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