ヘボヘミヤンだ。君のようなエピキュリアンじゃない。到る処の珈琲店《カッフェ》、酒場《バア》、ないしは下《くだ》って縄暖簾《なわのれん》の類《たぐい》まで、ことごとく僕の御馴染《おなじみ》なんだ。」
大井はもうどこかで一杯やって来たと見えて、まっ赤に顔を火照《ほて》らせながら、こんな下らない気焔を挙げた。
三十一
「但し御馴染《おなじみ》だって、借のある所にゃ近づかないがね。」
大井《おおい》は急に調子を下げて、嘲笑《あざわら》うような表情をしたが、やがて帳場机の方へ半身を※[#「てへん+丑」、第4水準2−12−93]《ね》じ向けると、
「おい、ウイスキイを一杯。」と、横柄《おうへい》な声で命令した。
「じゃ、至る所、近づけなかないか。」
「莫迦《ばか》にするな。こう見えたって――少くとも、この家《うち》へは来ているじゃないか。」
この時給仕女の中でも、一番背の低い、一番子供らしいのがウイスキイのコップを西洋盆《サルヴァ》へ載せて、大事そうに二人の所へ持って来た。それは括《くく》り頤《あご》の、眼の大きい、白粉《おしろい》の下に琥珀色《こはくいろ》の皮膚《ひふ》が透《す》いて見える、健康そうな娘だった。俊助《しゅんすけ》はその給仕女がそっと大井の顔へ親しみのある眼《ま》なざしを送りながら、盛りこぼれそうなウイスキイのコップを卓子《テエブル》の上へ移した時、二三日前に郁文堂《いくぶんどう》であの土耳其帽《トルコぼう》の藤沢《ふじさわ》が話して聞かせた、最近の大井の情事なるものを思い出さずにはいられなかった。と、果して大井も臆面《おくめん》なく、その給仕女の方へまっ赤になった顔を向けると、
「そんなにすますなよ。僕が来て嬉しかったら、遠慮なく嬉しそうな顔をするが好いぜ。こりゃ僕の親友でね、安田《やすだ》と云う貴族なんだ。もっとも貴族と云ったって、爵位なんぞがある訳じゃない。ただ僕よりゃ少し金があるだけの違いなんだ。――僕の未来の細君、お藤《ふじ》さん。ここの家じゃ、まず第一の美人だね。もし今度また君が来たら、この人にゃ特別に沢山ティップを置いて行ってくれ。」
俊助は煙草に火をつけながら、微笑するよりほかはなかった。が、娘はこの種類の女には珍しい、純粋な羞恥《しゅうち》の血を頬に上らせながら、まるで弟にでも対するように、ちょいと大井を睨《ね》める
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