サ奮が心に燃えているのを意識していた。彼はこのまま、本郷行《ほんごうゆき》の電車へ乗って、索漠《さくばく》たる下宿の二階へ帰って行くのに忍びなかった。そこで彼は夕日の中を、本郷とは全く反対な方向へ、好い加減にぶらぶら歩き出した。賑かな往来は日暮《ひぐれ》が近づくのに従って、一層人通りが多かった。のみならず、飾窓《ショウウインドウ》の中にも、アスファルトの上にも、あるいはまた並木の梢《こずえ》にも、至る所に春めいた空気が動いていた。それは現在の彼の気もちを直下《じきげ》に放出したような外界だった。だから町を歩いて行く彼の心には、夕日の光を受けながら、しかも夕日の色に染まっていない、頭の上の空のような、微妙な喜びが流れていた。………
 その空が全く暗くなった頃、彼はその通りのある珈琲店《カッフェ》で、食後の林檎《りんご》を剥《む》いていた。彼の前には硝子《ガラス》の一輪挿しに、百合《ゆり》の造花が挿してあった。彼の後では自働ピアノが、しっきりなくカルメンを鳴らしていた。彼の左右には幾組もの客が、白い大理石の卓子《テエブル》を囲みながら、綺麗《きれい》に化粧した給仕女と盛に饒舌《しゃべ》ったり笑ったりしていた。彼はこう云う周囲に身を置きながら、癲狂院《てんきょういん》の応接室を領していた、懶《ものう》い午後の沈黙を思った。室咲《むろざ》きの薔薇《ばら》、窓からさす日の光、かすかなピアノの響、伏目になった辰子の姿――ポオト・ワインに暖められた心には、そう云う快い所が、代る代る浮んだり消えたりした。が、やがて給仕女が一人、紅茶を持って来たのに気がついて、何気《なにげ》なく眼を林檎から離すと、ちょうど入口の硝子戸が開《あ》いた所で、しかもその入口には、黒いマントを着た大井篤夫《おおいあつお》が、燈火《ともしび》の多い外の夜から、のっそりはいって来る所だった。
「おい。」
 俊助は思わず声をかけた。と、大井は驚いた視線を挙げて、煙草の煙の立ちこめている珈琲店《カッフェ》の中を見廻したが、すぐに俊助の顔を見つけると、
「やあ、妙な所へ来ているな。」と云いながら、彼の卓子《テエブル》の向うへ歩み寄って、マントも脱がずに腰を下した。
「君こそ妙な所が御馴染《おなじみ》じゃないか。」
 俊助はこう冷評《ひやか》しながら、大井に愛想《あいそ》を売っている給仕女を一瞥《いちべつ》した。
「僕
前へ 次へ
全53ページ中43ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング