ニ新田の顔を見ながら、
「とても暇にはなりませんよ。クレマンソオはどうしても、僕の辞職を聴許《ちょうきょ》してくれませんからね。」
 新田は俊助と顔を見合せたが、そこに漂っている微笑を認めると、また黙然《もくねん》と病室の隅へ歩を移して、さっきからじっと二人を見つめていた、品の好《い》い半白の男に声をかけた。
「どうした。まだ細君は帰って来ないかね。」
「それがですよ。妻《さい》の方じゃ帰りたがっているんですが、――」
 その患者《かんじゃ》はこう云いかけて、急に疑わしそうな眼を俊助へ向けると、気味の悪いほど真剣な調子になって、
「先生、あなたは大変な人を伴《つ》れて御出でなすった。こりゃあの評判の女たらしですぜ。私の妻《さい》をひっかけた――」
「そうか。じゃ早速僕から、警察へ引き渡してやろう。」
 新田は無造作《むぞうさ》に調子を合わすと、三度《みたび》俊助の方へ振り返って、
「君、この連中が死んだ後で、脳髄《のうずい》を出して見るとね、うす赤い皺の重なり合った上に、まるで卵の白味《しろみ》のような物が、ほんの指先ほど、かかっているんだよ。」
「そうかね。」
 俊助は依然として微笑をやめなかった。
「つまり磐梯山《ばんだいさん》の爆発も、クレマンソオへ出した辞職届も、女たらしの大学生も、皆その白味のような物から出て来るんだ、我々の思想や感情だって――まあ、他は推して知るべしだね。」
 新田は前後左右に蠢《うごめ》いている鼠の棒縞を見廻しながら、誰にと云う事もなく、喧嘩を吹きかけるような手真似をした。

        三十

 初子《はつこ》と辰子《たつこ》とを載せた上野行《うえのゆき》の電車は、半面に春の夕日を帯びて、静に停留場《ていりゅうば》から動き出した。俊助《しゅんすけ》はちょいと角帽《かくぼう》をとって、窓の内の吊皮《つりかわ》にすがっている二人の女に会釈《えしゃく》をした。女は二人とも微笑していた。が、殊に辰子の眼は、微笑の中《うち》にも憂鬱な光を湛えて、じっと彼の顔に注がれているような心もちがした。彼の心には刹那《せつな》の間、あの古ぼけた教室の玄関に、雨止《あまや》みを待っていた彼女の姿が、稲妻《いなずま》のように閃いた。と思うと、電車はもう速力を早めて、窓の内の二人の姿も、見る見る彼の眼界を離れてしまった。
 その後を見送った俊助は、まだ一種の
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