ニ、そのまま派手な銘仙《めいせん》の袂《たもと》を飜《ひるがえ》して、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》帳場机の方へ逃げて行ってしまった。大井はその後姿《うしろすがた》を目送しながら、わざとらしく大きな声で笑い出したが、すぐに卓子《テエブル》の上のウイスキイをぐいとやって、
「どうだ。美人だろう。」と、冗談のように俊助の賛同を求めた。
「うん、素直そうな好い女だ。」
「いかん、いかん。僕の云っているのは、お藤《ふじ》の――お藤さんの肉体的の美しさの事だ。素直そうななんぞと云う、精神的の美しさじゃない。そんな物は大井篤夫《おおいあつお》にとって、あってもなくっても同じ事だ。」
 俊助は相手にならないで、埃及《エジプト》の煙ばかり鼻から出していた。すると大井は卓子《テエブル》越しに手をのばして、俊助の鼈甲《べっこう》の巻煙草入から金口《きんぐち》を一本抜きとりながら、
「君のような都会人は、ああ云う種類の美に盲目《もうもく》だからいかん。」と、妙な所へ攻撃の火の手を上げ始めた。
「そりゃ君ほど烱眼《けいがん》じゃないが。」
「冗談じゃないぜ。君ほど烱眼じゃないなんぞとは、僕の方で云いたいくらいだ。藤沢のやつは、僕の事を、何ぞと云うとドン・ジュアン呼ばわりをするが、近来は君の方へすっかり御株を取られた形があらあね。どうした。いつかの両美人は?」
 俊助は何を措《お》いても、この場合この話題が避けたかった。そこで彼は大井の言葉がまるで耳へはいらないように、また談柄《だんぺい》をお藤さんなる給仕女の方へ持って行った。

        三十二

「幾つだ、あのお藤《ふじ》さんと云うのは?」
「行年《ぎょうねん》十八、寅の八白《はっぱく》だ。」
 大井《おおい》はまた新に註文したウイスキイをひっかけながら、高々と椅子《いす》の上へあぐらをかいて、
「年まわりから云や、あんまり素直でもなさそうだが、――まあ、そんな事はどうでも好い、素直だろうが、素直でなかろうが、どうせ女の事だから、退屈な人間にゃ相違なかろう。」
「ひどく女を軽蔑《けいべつ》するな。」
「じゃ君は尊敬しているか。」
 俊助《しゅんすけ》は今度も微笑の中《うち》に、韜晦《とうかい》するよりほかはなかった。と、大井は三杯目のウイスキイを前に置いて、金口の煙を相手へ吹きかけながら、
「女なんてもの
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