「いかん。いかん。金時計の手前に対しても、一枚だけは買う義務がある。」
二人はこんな押問答を繰返しながら、閲覧人で埋《う》まっている机の間を通りぬけて、とうとう吹き曝《さら》しの玄関へ出た。するとちょうどそこへ、真赤な土耳其《トルコ》帽をかぶった、痩《や》せぎすな大学生が一人、金釦《きんボタン》の制服に短い外套を引っかけて、勢いよく外からはいって来た。それが出合頭《であいがしら》に大井と顔を合せると、女のような優しい声で、しかもまた不自然なくらい慇懃《いんぎん》に、
「今日《こんにち》は。大井さん。」と、声をかけた。
三
「やあ、失敬。」
大井《おおい》は下駄箱《げたばこ》の前に立止ると、相不変《あいかわらず》図太い声を出した。が、その間《あいだ》も俊助《しゅんすけ》に逃げられまいと思ったのか、剃痕《そりあと》の青い顋《あご》で横柄《おうへい》に土耳其帽《トルコぼう》をしゃくって見せて、
「君はまだこの先生を知らなかったかな。仏文の藤沢慧《ふじさわさとし》君。『城』同人《どうじん》の大将株で、この間ボオドレエル詩抄と云う飜訳を出した人だ。――こっちは英文の安田俊助《やすだしゅんすけ》君。」と、手もなく二人を紹介してしまった。
そこで俊助も已《や》むを得ず、曖昧《あいまい》な微笑を浮べながら、角帽を脱いで黙礼した。が、藤沢は、俊助の世慣れない態度とは打って変った、いかにも如才《じょさい》ない調子で、
「御噂《おうわさ》は予々《かねがね》大井さんから、何かと承わって居りました。やはり御創作をなさいますそうで。その内に面白い物が出来ましたら、『城』の方へ頂きますから、どうかいつでも御遠慮なく。」
俊助はまた微笑したまま、「いや」とか「いいえ」とか好《い》い加減な返事をするよりほかはなかった。すると今まで皮肉な眼で二人を見比べていた大井が、例の切符を土耳其帽《トルコぼう》に見せると、
「今、大いに『城』同人へ御忠勤を抽《ぬき》んでている所なんだ。」と、自慢がましい吹聴《ふいちょう》をした。
「ああ、そう。」
藤沢は気味の悪いほど愛嬌《あいきょう》のある眼で、ちょいと俊助と切符とを見比べたが、すぐその眼を大井へ返して、
「じゃ一等の切符を一枚差上げてくれ給え。――失礼ですけれども、切符の御心配はいりませんから、聴きにいらして下さいませんか。」
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