俊助は当惑《とうわく》そうな顔をして、何度も平《ひら》に辞退しようとした。が、藤沢はやはり愛想よく笑いながら、「御迷惑でもどうか」を繰返して、容易に出した切符を引込めなかった。のみならず、その笑の後《うしろ》からは、万一断られた場合には感じそうな不快さえ露骨に透《す》かせて見せた。
「じゃ頂戴して置きます。」
俊助はとうとう我《が》を折って、渋々その切符を受取りながら、素《そ》っ気《け》ない声で礼を云った。
「どうぞ。当夜は清水昌一《しみずしょういち》さんの独唱《ソロ》もある筈になっていますから、是非大井さんとでもいらしって下さい。――君は清水さんを知っていたかしら。」
藤沢はそれでも満足そうに華奢《きゃしゃ》な両手を揉《も》み合せて、優しくこう大井へ問いかけると、なぜかさっきから妙な顔をして、二人の問答を聞いていた大井は、さも冗談じゃないと云うように、鼻から大きく息を抜いて、また元の懐手《ふところで》に返りながら、
「勿論知らん。音楽家と犬とは昔から僕にゃ禁物《きんもつ》だ。」
「そう、そう、君は犬が大嫌いだったっけ。ゲエテも犬が嫌いだったと云うから、天才は皆そうなのかも知れない。」
土耳其帽《トルコぼう》は俊助の賛成を求める心算《つもり》か、わざとらしく声高《こわだか》に笑って見せた。が、俊助は下を向いたまま、まるでその癇高《かんだか》い笑い声が聞えないような風をしていたが、やがてあの時代のついた角帽の庇《ひさし》へ手をかけると、二人の顔を等分に眺めながら、
「じゃ僕は失敬しよう。いずれまた。」と、取ってつけたような挨拶《あいさつ》をして、※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそう》石段を下りて行った。
四
二人に別れた俊助《しゅんすけ》はふと、現在の下宿へ引き移った事がまだ大学の事務所まで届けてなかったのを思い出した。そこでまたさっきの金時計を出して見ると、約束の三時までにはかれこれ三十分足らずも時間があった。彼はちょいと事務所へ寄る事にして、両手を外套《がいとう》の隠しへ突っこみながら、法文科大学の古い赤煉瓦《あかレンガ》の建物の方へ、ゆっくりした歩調で歩き出した。
と、突然頭の上で、ごろごろと春の雷《らい》が鳴った。仰向《あおむ》いて見ると、空はいつの間にか灰汁桶《あくおけ》を掻《か》きまぜたような色になって、そ
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