「。」
野村は制服の隠しから時計を出して、壁の上のと見比べていたが、
「じゃ君は向うで待っていてくれ給え。僕は先へ切符を買って来るから。」
俊助は独りで待合室の側の食堂へ行った。食堂はほとんど満員だった。それでも彼が入口に立って、逡巡《しゅんじゅん》の視線を漂わせていると、気の利《き》いた給仕が一人、すぐに手近の卓子《テエブル》に空席があるのを教えてくれた。が、その卓子《テエブル》には、すでに実業家らしい夫婦づれが、向い合ってフオクを動かしていた。彼は西洋風に遠慮したいと思ったが、ほかに腰を下《おろ》す所がないので、やむを得ずそこへ連《つらな》らせて貰う事にした。もっとも相手の夫婦づれは、格別迷惑らしい容子《ようす》もなく、一輪《いちりん》挿《ざ》しの桜を隔てながら、大阪弁で頻《しきり》に饒舌《しゃべ》っていた。
給仕が註文を聞いて行くと、間もなく野村が夕刊を二三枚つかんで、忙しそうにはいって来た。彼は俊助に声をかけられて、やっと相手の居場所に気がつくと、これは隣席の夫婦づれにも頓着なく、無造作《むぞうさ》に椅子をひき寄せて、
「今、切符を買っていたら、大井《おおい》君によく似た人を見かけたが、まさか先生じゃあるまいな。」
「大井だって、停車場へ来ないとは限らないさ。」
「いや、何でも女づれらしかったから。」
そこへスウプが来た。二人はそれぎり大井を閑却《かんきゃく》して、嵐山《あらしやま》の桜はまだ早かろうの、瀬戸内《せとうち》の汽船は面白かろうのと、春めいた旅の話へ乗り換えてしまった。するとその内に、野村が皿の変るのを待ちながら、急に思い出したと云う調子で、
「今|初子《はつこ》さんの所へ例の件を電話でそう云って置いた。」
「じゃ今日は誰も送りに来ないか。」
「来るものか。何故《なぜ》?」
何故と尋《き》かれると、俊助も返事に窮するよりほかはなかった。
「栗原へは今朝《けさ》手紙を出すまで、国へ帰るとも何とも云っちゃなかったんだから――その手紙も電話で聞くと、もう少しさっき届いたばかりだそうだ。」
野村はまるで送りに来ない初子のために、弁解の労を執《と》るような口調だった。
「そうか。道理で今日|辰子《たつこ》さんに遇《あ》ったが何ともそう云う話は聞かなかった。」
「辰子さんに遇った? いつ?」
「午《ひる》すぎに電車の中で。」
俊助はこう答えなが
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