ネけりゃならないから、今度はまあ親父《おやじ》の年忌《ねんき》を兼ねて、その面倒も見に行く心算《つもり》なんだ。どうもこう云う問題になると、中々哲学史の一冊も読むような、簡単な訳にゃ行かないんだから困る。」
「そりゃそうだろう。殊に君のような性格の人間にゃ――」
 俊助は同じ東京の高等学校で机を並べていた関係から、何かにつけて野村一家の立ち入った家庭の事情などを、聞かせられる機会が多かった。野村家と云えば四国の南部では、有名な旧家の一つだと云う事、彼の父が政党に関係して以来、多少は家産が傾いたが、それでも猶《なお》近郷《きんごう》では屈指の分限者《ぶげんじゃ》に相違ないと云う事、初子の父の栗原は彼の母の異腹《はらちがい》の弟で、政治家として今日の位置に漕《こぎ》つけるまでには、一方《ひとかた》ならず野村の父の世話になっていると云う事、その父の歿後どこかから妾腹《しょうふく》の子と名乗る女が出て来て、一時は面倒な訴訟《そしょう》沙汰にさえなった事があると云う事――そう云ういろいろな消息に通じている俊助は、今また野村の帰郷を必要としている背後にも、どれほど複雑な問題が蟠《わだか》まっているか、略《ほぼ》想像出来るような心もちがした。
「まず当分はシュライエルマッヘルどころの騒ぎじゃなさそうだ。」
「シュライエルマッヘル?」
「僕の卒業論文さ。」
 野村は気のなさそうな声を出すと、ぐったり五分刈の頭を下げて、自分の手足を眺めていたが、やがて元気を恢復したらしく、胸の金釦《きんボタン》をかけ直して、
「もうそろそろ出かけなくっちゃ。――じゃ癲狂院《てんきょういん》行きの一件は、何分よろしく取計らってくれ給え。」

        十九

 野村《のむら》が止めるのも聞かず、俊助《しゅんすけ》は鳥打帽にインバネスをひっかけて、彼と一しょに森川町の下宿を出た。幸《さいわい》とうに風が落ちて、往来には春寒い日の暮が、うす明《あかる》くアスファルトの上を流れていた。
 二人は電車で中央停車場へ行った。野村の下げていた鞄《かばん》を赤帽に渡して、もう電燈のともっている二等待合室へ行って見ると、壁の上の時計の針が、まだ発車の時刻には大分遠い所を指していた。俊助は立ったまま、ちょいと顎《あご》をその針の方へしゃくって見せた。
「どうだ、晩飯を食って行っては。」
「そうさな。それも悪くはな
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